依存のアノマリー

 依存のアノマリー。依存という生の一つの状態、もしくは一つの存在形態は、他者からの「自立」が尊ばれる現代社会では、それ自体を好ましからぬ畸形と見るむきもある。だがここで私が〈依存のアノマリー〉と呼ぶことで切り取りたいのは、空想の世界でのみ成り立つそのような政治フィクションの断面ではない。私たちは、他者に依存することなしに一日たりとも生きることはできないし、そもそもこの世界に生を授かるためには他者の力が絶対的に必要であった。このことは疑いようがない。ネオリベ的な倍音が伴うチープな「自立」の物語はもちろん、それに対置される「アノマリーとしての依存」もまたつまらない擬制であることはすでに繰り返し論じられてきた自明の事実であって、政策論争課題としては重要であっても、思想的な面白さがそこにあるとは思えない。
 ここで確認したいのは、依存することの遍在性をさしあたり認めたうえで、物理的・身体的な関係から情緒的・文化的な関係にいたるまで、さまざまな位相とスケールでの依存関係に、「正常なもの」と「異常なもの」という規範性が内在しているということである。もちろん、「正常な依存/異常な依存」という命題は医学の領域における古典的な問題である。この領域で問題になるのは、「薬物依存」や「サディズム=マゾヒズム」等々の概念によって病理学的に析出され、特別に「嗜癖」や「アディクション」とも呼ばれるような依存のカテゴリーである。このこと自体はよく知られた事実である。
 では、私がここで問題にしたい論点とは、より正確にはいったいどのようなものだというのか。繰り返すなら、人間の生活史において他者に依存することは、語の本来の意味で「日常的」なことであるし、また、ある種の依存関係が自己破壊的なものへと転じることは、単に自明の前提、当然の確認事項であるに過ぎない。私の興味はより抽象的で微妙な領域に向かっている。
 私に興味深く思われるのは、生命が生命であるために要請される依存のパターンをめぐる観念の歴史である。生命一般が環境や他者と取り結ぶ依存関係が、どのような言葉で記述され、歴史的に規範化されてきたのかを見ていきたいのである。いかにもアノマリー然としたアノマリーではなく、あまり逸脱や変則が問題にならなそうな場所からじわりと生活の裂け目へと出現してくるような依存のあり方を問題としたい。環境へと自らを開き、他者へと自らの運命を託すことの様態を可能な極限にまで突き詰めた思索を辿り、そこになおも残されている普遍ならざる価値の芳香を求めてみようと思う。
 たとえば、二十世紀前半の物理化学の領域ではどうか。正確には、物理化学において探究されてきた生命の存在様式はどのように生成してきたのか。物理化学という、本来であれば価値や規範とは無縁の自然主義——力の説明や、個別的な金属塩の反応などの説明原理と同型性を保ちながら、その記号的言語によって生命や人間社会の性質をも解明しようとする一つの哲学、ないしはリサーチ・プロジェクト——が支配的な領域で、「正常」と「異常」といった規範性はどのように扱われてきたのだろうか。
 十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、物理学と化学は相乗的に発展を遂げ、ついには生命という現象の全体をその射程に収めたのだった。有機化学的な知見の洗練や観測機器の精緻化なども土台となって、生きた有機体は分子の集合へと切り刻まれ、それらミクロな粒子が生体のなかで化学的に結合しては離散していく容態が解き明かされていった。生物を物理化学的に解析していくその研究領域で用いられる解明の方法は、超新星爆発の画像解析やコバルトの炎色反応の説明で使用されるものと基本的には同一の知の形態である。かつては生物学がその多様性と特異性の探究に明け暮れた生命という現象領域は、いまや生物と非生物との本性上のいかなる差異も廃棄する場に置かれ、物理化学的な解明の圧力に晒されることとなったのである。
 だが、生命のアプリオリな特別性を却下するそのような方法が最終的に認めることになったのは、逆説的なことに、非生物とは完全に区別されうる、生物の特異な存在様式であった。有機的生命は、環境からある種の秩序を借用して損失させる代わりに維持される「不安定な動的平衡システム」と見做されるようになった。環境に依存し他者に負いながらなんとか自らを持続させること、それが生命という現象形態そのものと同一視されたということである。それはつまり、物理化学的な生命科学の精査を経ることで、「生きること」と「依存すること」とのあいだの差異が解消され、依存という存在形態がより高い演繹性を獲得したのだとも言える。物理学者エルヴィン・シュレディンガーが『生命とは何か』(1944年)で用いた表現を参照するならば、「生命とは、秩序から無秩序へと向かう傾向だけに基づくのではなく、先在して持続している秩序をも基盤とする、物質の合法則的な振る舞い」である(Schrödinger 1992: 68)。外部へと開かれ、それゆえに環境に依存している生体の相対的な自立性の機能は、時間とともに無秩序へと物理法則的に向かう非生体とは明確に類別された。科学史家ジョルジュ・カンギレムが、「生物学の対象のオリジナリティが理性的に基礎付けられるのは、生物学が自らの対象をことごとく物理学者と化学者の権限にしたがわせたときだった」(Canguilhem 2006: 168)と言うのは、環境への依存性の解明によってふたたび生命の特別性が顕示された、この逆説的な歴史的帰結を指している。
 生物の特権性を剥奪することから始まった生命研究の物理化学化は、生命の特殊性という問題、すなわち自然全体のなかで生命を生命たらしめる閾という問題をあらためて投げかけることになった。生命の閾の問題とは、どこまでが「問題なく生きている」のであって、どこからが「不調が発生している」ないしは「死んでいる」と判断しうるのかという問題である。それはつまり、「正常/異常」の規範性をめぐる生理学的・病理学的な古典的問題が回帰したということだ。カンギレムが緻密な考証作業を経て明らかにしたように、生命科学の物理化学化は、「正常なものと異常なものとの対立が正当なものとして認められる客観性の水準が、表面から深部へと、すなわち発達した有機体から胚へと、巨視的な[肉眼で視認できる]ものから眼外顕微鏡的な[極微の]ものへと位置をずらした」だけに過ぎない(Ibid: 169)。生命についての物理化学的な新しい科学は、「正常」または「異常」として価値付けられた規範性の様相を除去しなかっただけでなく、「まったく反対に、その様相を生きた有機体の根源的な構造に根付かせることによって、その様相を基礎づけた」のである(Ibid: 170)。いまや物理化学的生命科学は、生きること、環境へと開かれること、他者へと自身の運命を委ねることの振る舞いを規範化する強力な審級として、価値が問題となる観念の世界を「基礎づけて」いる。
 だがはたしてそのことは、力を記述したり元素量を同定するようにして「真なる規範」が開示されることを約束しているのであろうか。言い換えれば、物理学や化学の構成原理と根源的な同型性を保ったままに、生きることの正常な振る舞いを確定することはできるのだろうか。答えは否である。「銀盤に目を差し出す聖ルチアのイコノロジーを、自然主義的に説明づけることができると思うような論者がいるとするなら、やれるものならやってみれば良い」(金森 2004: iii)。もちろんそんなことはできるはずもない。そのことは、「死」という生命研究の根本に関わる現象形態についての価値づけでも同様である。物理学者にとって、遺伝子の突然変異はたとえそれが死、あるいは機能停止にいたるものだったとしても、核酸塩基の配列が変わっただけという話であって、それ以上でも以下でもない。
 しかし、生命という死すべき者を対象とする科学、そして、現に一つの生体として生きている私たち自身は、この変化に決定的に重大な意味を認めざるを得ない。物理化学による生命理解に基礎付けられながらも、さまざまな価値によって彩られた言葉によって異常と死の特別性に向き合い続けなければならないのだ。カンギレムが『正常と病理』(1966年)で簡潔に言明したように、私たちは、傷つきやすく、病む存在だからこそ、正常性という規範と離別することはできない。

生物が、傷害や、寄生虫の侵入や、機能の混乱に対して病気によって応ずるという事実は、生命が自分で生きていける諸条件に無関心ではないという基本的事実、そして、生命とは極性であり、それゆえに、無意識のうちの価値の見解でもあるという基本的事実、要するに、生命が実際には規範的活動であるという基本的事実を表現している。(Canguilhem 1987: 77, 邦訳104頁)

変化へと開かれているがゆえに、そして、開かれているのにもかかわらず生きている私たちは、取りまく環境に対するふるまい方、すなわち依存の方途を試行錯誤しなくてはならない。このシンプルな宿命によって、生命は、自らが正常性と異常性の編纂者となりうるのだ。だからこそ、規範性は「その生体のうちにあるのではなく、規範性は生体を経ていくのであり、ある所与の場所と時において、生命と死の普遍的な関係を表現している」(Canguilhem 1988=2006: 165)のである。あるいはこうも言えるだろう。規範性は環境に書き込まれた不動の戒律ではなく、生命が自らの死を賭け金として、依存のふるまいを試行錯誤するその動きの個別性に宿る。
 ところで、自然主義言説と規範の複雑な交錯について、より根源的な位相において思考を巡らしたのが、カンギレムの弟子であるミシェル・フーコーであった。彼は、「主体化」をキーワードとして、特定の時空間のなかで自らを特定の属性を持った存在であることを自明のこととして考える歴史的な存在を「主体」と捉え、その誕生にいたる歴史的諸条件について生涯にわたって考え抜いた思想家であった。その思索が、一般的で抽象的な「人間」の実在を前提とする従来の思考に対する異議申し立てであったことはよく知られている。そのフーコーが、まるでそれまでの仕事は「誤り」だったとでも言うかのように最晩年に取り組んだのが、「生命」の一般的性質の解明、そして「人間」の本性の定位であった。このことはほとんど知られていないし、おそらくはフーコー研究者からも長らく無視されている事実である。
 生命論に関するフーコーの仕事のうちでもっとも重要なのは、死期が迫るなか、極度の疲労下で紡ぎ出された著作である。そのうちの一つが、「生命:経験と科学 La vie: l’expérience et la science」(1985年)である。この論攷は彼の師であるカンギレムの科学哲学について論じたものであり、「誤ることができるような存在としての生命」というカンギレムの生命理解を、フーコーが積極的に承認し、その思想的な発展可能性を提起したテキストであった。
 そう、まさに「誤り」こそが鍵である。フーコーは生前最後に印刷許可を出したこのテキストの末尾で次のように宣言している。「認識は世界の真理に開かれているのではなく、生命の『誤り』に根付いているとすれば、主体の理論はあらたに表現されなければならないのではないか」(Foucault 1985=2006: 443)。普遍的な永遠の真理が開示されることはない。正しきものは認識しようとしても認識できるものではない。しかし、生ある者には「間違えること」という依り立つ場所がかならず用意されている。したがって、「主体」もまたこの場所から再考しなくてはならない、とフーコーは言う。さて、どういうことだろうか。
 フーコーによれば、生命は環境のなかでさまざまな関係をもち、あちらこちらへと移動しながら情報を収集して解読し、そして自らもまた概念を生成することで世界を把握する存在である。そして解読された世界のあり方を基盤として事物を有益なものへと再構成して環境を作り替える。概念によって構築された場所に生きているということは、生命からの離脱を意味するものではけっしてない。情報収集、解読、概念生成、再構成、そしてまた情報収集というフィードバックの連鎖に特徴づけられる存在様式こそが、生命の本質なのであって、「概念を形成すること、それは生命を殺すことではなく、ひとつの生き方」なのである(Ibid.: 437)。したがって、生命をめぐる思考の課題とは、「すべての生体が環境から汲み上げる情報の様態のひとつとして概念を解明」し、生命が「この情報によって環境を構造化する」その様態を解き明かそうとすることだとみなすことができる。
 だが生命による環境の読み取りには、生命の有限生に宿命づけられた不確実性がつねに伴っている。そうであるからこそ、フーコーは「生命科学の問題の中心」に、「偶然」と「誤り」の決定的な重要性を見出すのである(Ibid.: 438)。

生命のもっとも根源的なレベルにおいて、コードと解読の動きは偶然にゆだねられている。それは病気や欠陥や畸型になる以前の、情報システムの変調や「取り違え」のようなものだ。極端な言い方をすれば——そしてそこから生命の根源的な特徴が生じるのだが——、生命とは誤ることのできるようなものなのである。(Ibid.: 439)

環境を読み取ることにつきまとう偶然性ゆえに、不確実性が生命にとっての常態であり、生命は間違ってしまう。間違ってしまうがために、「異常」が生命にとってのかけがえのない問題となるのである。そして間違ってしまうがために、規範性が生命科学の全領域を横断しているのだとフーコーはみるのである。
 あまりにも当然のことながら、人間もまた生命の一員である。「誤り」はその生活史の全期間にわたって影を落としている。だがそれだけではない。世界を読み取ることの偶然性こそが、個々人の生活史を超えた人間社会の歴史を規定している。フーコーによれば、「概念とは、生命みずからがこの偶然に与える答えであるということを認めれば、誤りとは人間の思考と歴史をかたちづくるものの根元だと考えなければならない」(loc cit.)。そして、科学という営みもまた「誤り」への応答の一つの現象形態なのである。

科学史は非連続的なものであり、それは「訂正」の系列として、真と偽の新たな配分としてしか分析できず、真理の最終的な瞬間を解放してくれることもけっしてないとすれば、やはり「誤り」は約束された完成の忘却や遅れではなく、人間の生命や種の時間に固有な次元をかたちづくることになるだろう。(loc cit.)

間違えてしまうことの凡庸さから科学の旅路は始まる。失敗し続けることでしかその目標を達成することができないような人間特有の活動が、科学という営みなのである。試行錯誤しながら自らが変化すること、それ自体が「人間の生命や種の時間に固有な次元」を与え、歴史に彩りを添える。
 さて、ここでようやく、思想的な課題としての〈依存のアノマリー〉の意義が浮上してくる。それは、依存を「正常/異常」で類別すること自体の「非人間性」を問題化するものではない。カンギレムとフーコーの師弟が剔抉したように、誤ってしまう存在としての人間の生存から、「正常」と「異常」の対立を省略することはできない。間違え、傷み、病むこともある人間にとって、依存をめぐる規範を読み取り、その規範のなかでのふるまい方を思考することは、文字通りのままの死活問題だからだ。その上で、特定の規範が制度化され硬直化してしまうことの「非生命性」を問うことに〈依存のアノマリー〉というコンセプトは賭けられているのである。変わり続けることに固有の価値がある依存の規範性が、特定の政治技術のなかで人間を管理し統御するためのテクノロジーへと固定化されてしまう疎外状態を問題化したいのである。
 規範自体の変化を拒絶する規範は、もはや生ある者のための規範ではない。そこで「正常」とされ、あるいは「異常」とされる依存のあり方は、いずれも歴史の狂気である。私は、そのような、生者に試行錯誤の可能態を認めず、なにより「誤り」の余地を拒絶するような規範性にこそ、アノマリーを見出すのである。

文・長谷川健司


【文献】

Canguilhem, G. (2006). 『生命科学の歴史:イデオロギーと合理性』(杉山吉弘訳)法政大学出版局.

Canguilhem, G. (2017). 『正常と病理』(滝沢武久訳)法政大学出版局.

Foucault, M. (2006)「生命:経験と科学」,『フーコー・コレクション;第 6 巻』筑摩書房.

金森修 (2004). 『自然主義の臨界』勁草書房.

Schrödinger, R. (1992). What is life?: With mind and matter and autobiographical sketches. Cambridge university press.


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