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この映画に会えてよかった。『一月の声に歓びを刻め』

まもなく公開になる、
『一月の声に歓びを刻め』の試写会に先日行きました。
三島有紀子監督の最新作です。

素晴らしいという言葉や、作品という言葉や、観るという言葉、それらで語ることでは足りぬ真正の「映画」をいうものを体験させていただきました。

論評のような真似ができず、ただ感想を述べさせていただきます。
狭量な私に避けられぬ勘違いがあるかと思います。すみません。

ある女性が幼少の頃に受けた深い傷と、その傷にまつわる世界の映画です。海に浮かんだ3つの島と、その3つの島の人たち、海を行き来可能なフェリー船が出てきます。その行き来を体験したあと、私は海と島と船のどこにいるのだろうかと、今も考えています。

見始めて最初私は、「まるで監督が観客と対話しているようだ」と思い、
次第に、「そうではない、監督が世界と対話しているその対話に私は巻き込まれたのだ」と思い、
やがてさらに「そうではなかった、何者か分からぬ誰かが自分自身と闘う内面に私は踏み込んだのだ」と思いました。
見終わり、試写会場を出て家に戻り、自分の仕事をしながら今も私はその内面にまだいるかのようです。

私にも、厳しい体験があります。
そのことは終わりはしないけれども、私の人生にもこの映画に登場する八丈島のような、緑に満ちた島やそこに響く太鼓が、きっとあって欲しいと願いました。その島は演劇や折り紙なのかもしれないと思ったりもします。
認識という海に住む私達にとって、現実世界も物語世界も区別なく、ただ「島」なのかもしれません。
私は心から切実に、映画がこの世界にあってよかったと思いました。

もう少し感想を。

第1章の前半、カメラは常に安定した台に乗りなめらかに動き、美しい世界の片隅にいる構図で人々を捉えてゆきます。それを見ながら私は、つらい出来事も人生も、個人に単体で接続されているのではなく、常に広大な世界の一部としてあるのだ、と、うっかり安堵しておりました。そんな解釈を投げてもらっているのだと、勝手に甘い優しさを感じていたのです。
しかし1章終盤、登場人物が一人になり過去と闘うモノローグを始める時、カメラは「誰か」が手に持ったゆらぐカメラにかわったのです。世界側に接続していたカメラが人の側に接続される。私は映画が「世界」から抜け出し「内面」へと踏み込んだことに気づき戦慄しました。

第2章でもカメラは安定したり時に揺れたりして進み、ついに、
第3章ではカメラは完全に台を持たない「目」となり、色も失いました。私は、カメラの周りの現実なのか内面なのかわからない世界を観るしかなくなったのでした。私は映画を見ているのではなく、映画が見ている世界を見ていたのです。

その体験のあと、雪原の先の湖畔で叫ぶ父の声は、悲痛さを超越し、まるで過去の海に沈んでいる私にも届く声をかけてくれたような、そんな救いとして私に響きました。

それが私に届いたこの映画の声です。

『一月の声に歓びを刻め』、
私は、愚直かもですが、歓びと救いを受け取らせていただきます。
この世界に、このような素晴らしい、まるでまさに声のような映画を撮る方がいることを知った歓びと救いです。

素晴らしい映画をありがとうございました。

蛇足ながら。
私自身が慣れ親しんだ大阪の街が登場してうれしかったです。私が芝居を作っていた淀川の近くが登場し、親友と発声練習をした橋が登場し、登場人物の一人が持っていたスケッチブックが私が今も使っているキャンソンのクロッキー帖に似ていて、その持ち主がかつて目指していた職業なども、私がかつて目指した職業と同じで。
何かそのような、人生的符号も感じたりしたのでした。

三島有紀子監督は、関西演劇祭のサポーターとしてご一緒させていただいている方です。いつも甘くないのに優しい目で若者たちの芝居を見て、思いのこもった声をおかけになる方です。その御縁で拝見させていただいた試写会でした。
私は心から光栄に思いました。

『一月の声に歓びを刻め』

2024年2月9日から公開とのことです。

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