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私が教育に求めること:感受性を眠らせないこと

教育の目的はなんだろう?私が自分の子ども達の将来に関して、望んでいることはなんだろう。

私の子ども達(日本で言えば、中学1年と小学2年)は、モンテッソーリ教育を取り入れた学校に通っている。以前、メキシコでも同様の学校に通っていた。けれど、実は私自身はモンテッソーリ教育とはどのようなものかよくわかっていなかった。
日本にいる母から、「どんなものなの?」と尋ねられて、「一人一人の興味とか特性を尊重するみたい」などと言ってお茶を濁した。

そこで、創始者であるマリア・モンテッソーリの講演録を読んでみた。
私なりに理解したアイデアは次のとおり;

・子どもを枠にはめて矯正するように指導するのではなく、子ども自身が持っているエネルギーを活かす。必要なのは、将来の社会生活に対し備えることではなく、子ども時代を十分に生きること。
・乳児期から青年期までを6才ごとに4つの年代に分ける。各年代の特徴に応じた対応をし、不必要な援助をしない。
・人間社会の進歩、普遍的な価値のために貢献できる人を育てる。

そういった考え方には共感するし、自分もそのような方針の教育を受けたかったと思う。
この前、息子の同級生のお母さん(ベリーズ出身)に、「日本の教育ってどう?」と聞かれて、私の口から出たのは、「退屈」という言葉だった。

私自身は高校まで地方の公立校(小学校は長閑な小規模校。中学は不良が牛耳っていた。高校は普通科。家からの近さで選んだ)で、大学は都市部の私立に通った。保育園から高校まで、とにかく学校が嫌いだった。勉強は好きだったが、学校で求められる団体行動や、同質性を重視する友人関係が苦手だった。
でも、大人になってからハバナに短期の語学留学をした時、世界中から集まったクラスメイトたちが積極的に授業を受ける様子を見て驚いた。受け身でノートを取り、間違えないようにだけ気をつけている自分とは違って、彼らは楽しそうだった。冗談ばかり言っている人もいれば、真面目に質問する人もいる。教師が質問を投げると、すぐに反応がある。間違えても平気。寡黙な生徒もいたけれど、そういう人からは強い目的意識を感じた。自分が受けた日本の教育がすべてではないな、と改めて思った。改めて、というのは、それ以前から、自分の子どもには自分と同じような教育は受けさせたくないと思っていたから。それが普通で唯一のものだとは思ってほしくなかった。
ほかの学び方、違う雰囲気の学校、日本とは異なる仕組みで回る社会もあるよ、と自分も確かめたいし、子どもたちも経験できたらいいと思って、まずはメキシコ、それからスペインに今住んでいる。(移住の第一の理由はスペイン語圏で暮らしたいという私の思いであって、教育ではない。でも、子どもをどこで育てるかということは、当初からあった動機のひとつ。)

日本の教育は効率的なのかもしれない。全国どこの学校でも一定の質の教育が提供されているのはすごいことだ。ある程度賢い均質な若者を量産できる。けれど、それが本当に必要なことだろうか。
一保護者としての個人的な意見だけれど、日本の教育は、一部の例を除いて未だに単純なゴールを目指しているように思える。それは子供たちを従順な労働者に育てること。特に中学校から高校。そして、大学(学士)は卒業するのが難しくないので、無目的に終わる(特に文系学部)。さまざまな課外活動をする学生もいて、それは素晴らしいと思うが、本来は、授業やゼミで学ぶのが大学に属することの意義ではないかと思う。大学の学位は、新卒採用の応募条件を満たすためだけのものではないはずだ。

モンテッソーリ教育に話を戻すと、私は、なんとなく、モンテッソーリとは「子どもの意思を尊重し、教師はなるべく介入せずサポートする」ものなのだと思っていて、だから、目標とする明確な人間像はないのではないかと勝手に推測していた。けれど、そうではないようだ。やはり、”人のあるべき姿”のビジョンはある。

そもそも、どんな教育手法でも目指すところがあって、対象者をそこへ導くための行為や制度を教育と呼ぶのかもしれない。
モンテッソーリの場合、目指すのは、常に向上心を持ち、自己のミッションを通して成長を続け、共同体の発展に貢献する人物となることだ。マリア・モンテッソーリの講演からは、そのように読み取れる。子どもの「将来」ではなく「現在」を重視しつつ、その基調には、人類全体に資するという長期的な目標がある。
確かにそれは重要な目標だ。そして、教育には目標が必要なのだろう。
ただ、私としては何かがひっかかる。
それでは、私自身は教育、そして、その先にある人生に何を求めているのだろう。子どもたちの教育についても、私自身の教育(人生を通じた学習)についても。

数日考えた上で、私は、「感じること」を求めていると思う。自分の感性を眠らせないこと。考えること。
目的は、よりよい生活ではない。成功するためではない。人類や文化の発展のためでもない。なにかの「ため」ではなく、感じること自体を求めている。
それは、価値ではない。誰ともなににも交換できない。ただ、身体の内側にわいてくるもの。でも、自分がここにいることの証明だと思う。
あらゆることがそこから始まると思う。あるいは、始まらなくてもよい。定められた到達点というものは、それこそが落とし穴のように思える。
どこに向かってもよいし、どこにも向かわなくてもよい。理想はない。指針がないだけのように見えるし、実際のところそうかもしれない。でも、自分の感覚を信じることは悪くない気がする。その感覚に従うことが、幸せなのじゃないかと思う。自分はどこでなにをしたいのか、自覚することができるから。

子ども自身を出発点、中心とするという点で、モンテッソーリ教育には共感する。一人一人の持つ感覚を損なわないために必要な視点だと思う。
その上で、人類の発展とか向上といった目標はなくてもよいのではと私は思う。一人の人間が、自分の行きたい場所に行き、やりたいことをやることがなにより大切。

私は教育の専門家でもなければモンテッソーリの実践者でもないが、これは個人のブログなので個人的な意見を書く。

目下、私の頭の隅っこにチラつく気がかりは、3月に本帰国すること。
子どもたちの学校はどんなところになるだろう。過去に日本の学校にも通っていたとはいえ、今ではこちらの環境になじんだ2人。日本の中学校に初めて通うことになる娘のことが、特に気になる。私が通っていたような息苦しい学校ではないことを心から願っている。


タイトル画像は、先週訪ねたスペイン北部の街サンタンデール。緑の岬と青い海、遠くにはピレネー山脈。

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