『隈研吾という身体――自らを語る』刊行記念トークイベント 隈研吾×大津若果×真壁智治(前篇)

建築・都市レビュー叢書5、大津若果『隈研吾という身体――自らを語る』(NTT出版)の刊行を記念して、2019年1月14日、東京表参道の青山ブックセンター本店で、隈研吾×大津若果×真壁智治のトークイベント「進め! 建築の外へ」が行なわれました。
(以下はトークの内容を一部抜粋・編集したものです。)

(書影をクリックすると、3/2に大阪・梅田蔦屋で行われるイベントにジャンプします。)

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超弦理論のようなロジカルな自由さ

真壁:『隈研吾という身体』という極めて痛快な本ができました。これは『建築・都市レビュー叢書』の第5冊目となります。『建築・都市レビュー叢書』を、僕らは「R本」と呼んでいますが、20世紀を支えてきた建築の概念や理論の棚卸しを行ない、21世紀の建築知のプラットフォームをつくる、ということを目指して、ようやく5冊目にたどり着きました。 
 また、「R本」は若い世代のデビューの場にもなればと思っています。若い世代が、現役の建築家にもの申すのは、非常に良いことだと思います。おそらく現役の建築家にとっても、ときには、発憤材料となるかもしれない。新しい世代が現役バリバリの建築家に必死に食らいつき、書き上げる力を、これからも提示したいと思っています。

 さて、大津さんがこの本を書いた動機は、隈建築に対する誤解や無知が蔓延しているのではないか、という危惧からだと理解しています。つまり、社会との関係のなかで建築を考える隈建築の思考回路と、メディアがつくり上げたスター建築家像とのあいだで著しい乖離があるということです。
 こうした構図は、実は建築界のなかでも同じです。たとえば、隈さんの論考については得心するが、実際の作品と論考との命脈が断絶していると指摘する人は少なくありません。大津さん自身も、建築界のズレを皮膚的に感じていたのかもしれません。
 それにもうひとつ、隈さんの建築のなかで、金属に木を接ぐという「構造」的な純粋性を欠くものがあります。しかし、これは「構法」的に見れば、整合性が取れています。というのは、地域のなかで合理的につくろうとすれば、地域、材料、技術による混構造となるし、なにも巨大なものをつくる必要はない。こうした隈さんの思考は、「知識」だけではなく、地域、材料、技術にひそむ「知恵」を咀嚼するものです。これは明らかに「身体性」に根ざした発想です。この本は、その意味で、隈さんの「身体性」に主軸を置いて書かれています。
 隈さんは、今後も良い作品をつくるでしょうが、作風が変わったとしても、隈建築の思考回路を解き明かすキーワードとして、「身体性」を押さえなければなりません。もっとも隈さんが『グッドバイ・負ける建築』という本を書かないかぎりですが……(笑)。
 本書は、2016年に隈さんから大津さんという非常に熱心な研究者がいるという話から始まりました。隈さんは、本についても「めちゃくちゃ面白い」という感想を寄せてくれたけれども、大津さんとのインタビューのやり取りはどうでしたか?

隈:書きっぷりの面白さだけではなく、今までの建築批評から自由な人だと感じました。すごく柔軟ですね。
 大津さんに最初に出会ったのは、論文の指導です。ルイス・バラガンとファン・オゴルマンの二人を対象とした論文でしたが、二人とも僕は興味をもつ建築家ですし、実物をメキシコで何度も見たことがあります。
 その後、大津さんが、物理学の超弦理論に関するテキストを書いて、僕に送ってくれたのですが、どうして超弦理論を扱ったのですか?

大津:博士の学位を取ったことを隈さんに報告したときに、超弦理論の話を伺ったのがきっかけです。「すべての点は物質である」という隈さんの言葉に衝撃を受けました。

隈:なるほど。僕が超弦理論の話をして、その応答が大津さんのテキストなんですね。ではなぜ、僕が超弦理論を考えることになったかと言えば、建築家の原広司先生がきっかけです。僕は原先生の研究室の出身で、大学院生の頃、一緒にサハラ砂漠の旅をして、集落を調査したのが僕の原点になっています。
 今でこそ大御所に感じられるけれど、当時の原さんは、簡単に言うと「変な人」でした(笑)。
 東大の原研は、ゼミもなければ、いつも誰もいない。研究室が存在するのは、集落調査に行くときだけです。そんな自由な雰囲気に僕は憧れました。
建築界を支配した磯崎新さんのやり方を、原さんは集落という存在を通じて乗り越えようとしていました。アート中心のロジックとヒエラルキーから逸脱しようとしたわけです。
 数年前、原さんが身体を壊して「最後になるかもしれないので、本郷の学生に話したい」と言うから、「それは大変だ」と講演会を企画しました。その講演会で原さんが超弦理論の話をしたんです。「カリフォルニアで超弦理論を研究する大栗博司先生の本が面白い」と言い、親友の大江健三郎にも送ったところ「これは、新しい書き手の存在である」との返事が来たとのことでした。
 その本には、「空間的なものと物質的なものが対立するという構図ではなく、あらゆるものが振動して、時間という物質さえもそのなかに融け合う」と書かれていました。僕は量子力学の最先端を勉強しなければと思っていたし、原さんが熱く語るものだから、ちょうど大栗さんの本を読み始めていたんです、そんな折に、大津さんが挨拶に来たものだから、やり取りのなかにも、超弦理論の話が出てきたわけです。
 大津さんがリアクションしたテキストも面白くて、賢い人だと思いました。僕は、鈴木博之先生や藤森照信先生という優秀な歴史家に身近で接してきたけれど、従来の歴史家の優秀さとは違う点に、驚かされました。だから、大津さんを真壁さんに紹介しました。
 さらに驚いたのは、この本で、さまざまな世代にわたる建築家たちへの、彼女の迫り方です。かなり肉迫している(笑)。僕は夜の22時や23時といった遅い時間しか取れないので、その日の他の打ち合わせを終えたあとに、いつもインタビューを受けていました。頭がもうろうとしているんだけれども、彼女が細かなディテールの話をいろいろ訊いてきてね。「この人はひょっとすると、僕以上に僕のことを知っているのでは?」という迫り方でした。
 だから、事実に対する迫り方と、超弦理論のようなロジカルな自由さ。この両方があるので、鈴木先生や藤森先生といった歴史家とは違うと思いました。
 そんな取材だったので、受けていて面白かったですね。

隈研吾さん

ノンフィクション的な建築論

真壁:取材のとき、お互いの言語は共有できていましたか?

隈:彼女は、僕のテキストを読んでいたし、ほかにも関係者にインタビューしていたからね。僕のしゃべり方のクセまで把握していた(笑)。
 ノンフィクションの世界では、当たり前なのかもしれませんが、『覇者の驕り――自動車・男たちの産業史』(新潮社)で知られるデイヴィッド・ハルバースタムが、「どのようにノンフィクションを書くのか?」と訊かれ、二時間以上のインタビューを何回も続けると、ある段階になり、「オレは本人よりも本人のことを知っている」という境地に達する。その段階に達すると、「もう書ける」とわかると答えています。最近読んだ、ロバート・ホワイティング『ふたつのオリンピック 東京1964/2020』(角川書店)でも同じことを感じました。
場合によっては何年もかかるけれども、その境地に達するほどの粘り強さは、真夜中に訪問する大津さんを見て感じました(笑)。
 実際、僕が知らないことがいくつかありました。たとえば、第2章で取りあげられるイエズス会の修道院で、僕を指導してくれた大木神父に関しては、僕の知らない話を彼女は知っていました。

真壁:大津さんは、書きっぷりがとても軽やかで、テンポが良くて、活き活きしている。目の前にある事象が現出するような書き方は、建築界にはほとんどない。歴史家は資料を読み漁るから、大津さんのスタイルとは違いますね。

大津:これまでに対象としたバラガンやオゴルマンなどの建築家は、すでに亡くなっていたので残念な思いがありました。でも、隈さんに対しては、自分の考えたことを直接、本人に問い直すことができました。本人が生きていることが、うれしかったですね。

隈:確かに、話を聞けなくなった人を対象にすると、フラストレーションが溜まるかもしれません。「直接会って話す」と言えば、僕もコロンビア大学の客員研究員時代の取材を基に『グッドバイ・ポストモダン』(鹿島出版会)を書いたのは、建築家の肉声を聞きたかったからです。
 建築論は一般に、肉声に基づくわけではなく、どうしても観念的になりがちです。しかし、建築を実際に設計している人の肉声を、僕は聞きたかった。もう一つは、建築家の事務所を見たかった。事務所に行くと、その人のことがよくわかるから。
 とはいえ、その頃の僕は20代でしたから、たとえば、フィリップ・ジョンソンをはじめ、まったく会ってくれません。仕方なく、奨学金を受けたロックフェラー財団に「手紙を書いてくれ」と頼み込みました。すると、皆、たちまち会ってくれた(笑)。
 当時のスターアーキテクトのピーター・アイゼンマンやマイケル・グレイヴスなどの肉声を、彼らの事務所で聞くことができました。その肉声から、まさに「身体」から、こちらに伝わるものがあります。「どのように思考するか」を身体的に感じられたのは、重要な経験でした。そのあと東京に戻り、事務所を開き、建築家として生きていくときの土台となったのも、彼らと肉声で話したことにあります。
 当時の日本の建築界は、世界の建築家との距離が離れていたので、直接会うという発想はなかったし、思考のモデルをつくるという観念的な議論が中心でした。だから、僕はちょっと違うアプローチができたと思います。それが大津さんのなかにもありますね。

真壁:見事にね。

隈:僕以上にすごいと思うのは、文章にただようある種の生々しさです。

左より、真壁智治さんと大津若果さん


やさしく、やわらかなデザイン

大津:私が本を書いた動機の一つとして、研究者的な側面で、隈さんのように経済学的な視点から20世紀の建築を眺めることで、西洋中心主義に対する問題意識だけでは見えなかった建築と社会の関わり方が見えてきたということがあります。とりわけ、「20世紀工業製品デザイン」に対する批判的見解や、「ル・コルビュジエが建築に『商品性』という概念を持ち込んだ先駆的存在だ」という隈さんの考察に強い関心をもちました。
 もう一つは、隈さんの考えに対する理解を促すという動機です。たとえば、《新国立競技場》については、オリンピックの話題ばかりとなっていますが、隈さんは、オリンピック期間の一時的なものではなく、100年、200年の長い時間にわたって、市民が楽しむための「空の杜」をもつ競技場という提案もされています。そちらがまったく報道されていない。
 本の序で述べたように、メディアがつくり出す「劇」のようなドラマティックな一瞬よりもむしろ、「だらだら努力して、ゆるく楽しむ」ことを目的にするという隈さんの言説は、多くの人の耳に届かないままの状態になっている。その持続可能な方法も含めて、隈さんに直接インタビューし、実際に建物を見学して、形にしようという動機がありました。
 真壁さんが指摘されたように、建築界のなかにも隈さんへの誤解や無知があることも意識しました。いわゆるスターアーキテクトとの違いがそうした誤解を生むのでしょうが、そこで説明したいのは、人が生きていくうちには困難に直面することもあって、それに対処するのなら、本来知り得ないものを想起する必要があるということです。とはいえ、知らないことは思いつくことができない。だから、誰かが、たとえば建築家や哲学者が未知のものと人を結びつけることが重要になる。それによって人は知ることができるし、ときには困難を乗り越えられる。
 ただし、このような役割を担うとはいえ、「人が幸せになるにはどうすれば良いか」をたえず考えていないとできません。世界の第一線で活躍している建築家のなかにはあまりいません。たいがいの建築家の主語は、「建築が」「建築家が」であって、彼らは作品性に執着して、いわば自分のブランドを展開し、世界のどこの場所にも建ち上げていく人たちです。
 他方で、「人が幸せになるには」というフレーズを、隈さんはインタビューの際に何度も使うわけです。言い換えると、隈さんの「ヒューマンスケールのやさしく、やわらかなデザイン」が指すものは、木の温もり、布や紙のやわらかさ、といった物理的な意味だけではなく、数値化した社会においても、なお値札がないもの、好きであること、愛するということだと思う。これが、やさしく、やわらかなデザインの本質です。資本主義社会に閉塞感が漂い、日本の私たちが今まさに、必要としているものです。

木組みのルーツ

《ジャパン・ハウス・サンパウロ》の木組みゲート

大津:《ジャパン・ハウス・サンパウロ》は、ブラジルのサンパウロの目抜き通りに面し、日本文化に関わる展示を行なう施設です。もとは銀行であった建物の一部を改修し、隈さんが設計デザインしたものです。連日にぎわいを見せ、開館から5ヶ月間で来場者数が40万人を突破しました。
 なかでも目を引くのが、奥行き方向に37層も重なる、ユニークな「木組みのゲート」です。このゲートは、日本のヒノキだけではなく、下のほうは建築構造上の理由から、やや色の濃い南洋材で組まれ、日本とブラジルの協調関係を可視化するという面白さがあります。接着剤も釘も使わず、3センチの材がはめ合わされています。
 こうした木組みの建築には、東京・南青山の《サニーヒルズ》や愛知県の《GCプロソミュージアム・リサーチセンター》がありますが、そのルーツを探ると、大学時代の、内田祥哉先生の課題にさかのぼれます。3センチのバルサ棒を渡され、「自分流の継手をつくる」という課題が出されたそうですが、隈さんは、どのような継手をつくったのですか?

隈:僕が大学に入ったのは1973年で、超・建築ブームだったんです。1970年に大阪万博が開催され、僕の学年は建築学科が大人気で入るのがむちゃくちゃ難しかった。工学部のなかで建築学科の点数が一番高かった頃です。建築学科に入るために留年する人までいるし、60名の同級生全員が優等生でした。
 だから、内田先生の課題にも非常に優秀な解答をつくる。日本のさまざまな種類の継手を研究して、僕は名前も正確に覚えられないけれど、たとえば「追っかけ大栓継ぎ」などを参考にして、バルサを組む。そんな同級生たちを見て、「この優等生たちには絶対に敵わない」と確信したから、「冗談で解答するしかない」と思った(笑)。
 僕がつくった継手は、手書きのぐにゃりとした線で、オスとメスが組み合わされたもので、すごくユーモラスでお気に入りです。「隈君、これは何という名の継手なの?」と内田先生に訊かれ、「冗談継ぎです」と答えました。他の同級生たちの計算し尽くされた継手と比べると、思わず吹き出さずにはいられないのが、僕の継手です。ただし、ふわっとしているけれど、Z軸方向にテーパーを付けて、オスとメスが抜けない。
 「すこしは考えたようだね」と内田先生が反応してくれたので、「しっかり見てくれた」とうれしかったですね。教師の一言は、意外に影響を与えると思いました。

大津:隈さんが通った当時の東大の建築学科では、コンクリートのル・コルビュジエと、鉄の建築のミース・ファン・デル・ローエが二大巨匠だったとのことですが、彼らに注目する同級生たちとは、隈さんは異なる意見をもっていたのですか?

隈:ル・コルビュジエやミースのプロポーションを徹底的に研究するのが、当時の優等生的な態度でした。しかし、僕は同級生たちの生真面目さには絶対勝てないと思ったし、そんな研究はまったく意味がないとも思ったわけです。
 そんななか、さきほど触れた原先生は「今の時代に最もくだらない研究はプロポーションの研究だよ。プロポーションが良い悪いと建築を論じるヤツは全然ダメだと思う」と授業で教えるので、「この人は、わかってくれるかもしれない」と思いました。
 原さんの話は、世界が飛ぶ。マルクスの経済学批判の話があり、近代経済のケインズの話があり、確率論の話があり、しかし、それこそがミースの均質空間につながる、と説明する。むしろ、それを抜きにして、ミースの柱のプロポーションを解説しても、どうしようもないと話すので、こちらは勇気づけられる。そういう人間の下に飛び込みたい、と原研究室を選びました。
もちろん内田先生も面白いと思いましたが、しかし、当時の内田研の先輩たちは、これまた超優秀な優等生ぞろいで、この人たちには絶対勝てないと思った。
 一方で、原研の連中は、タダで寝泊まりに研究室を使ったり、魚を焼いて、その匂いが、生産技術研究所に立ち込めたり、といったレベルですからね。そんな自由さや、発想の大きさに惹かれました。

1990年代のPC(ポリティカル・コレクトネス)

《ジャパン・ハウス・サンパウロ》の和紙のスクリーン

大津:《ジャパン・ハウス・サンパウロ》に入ると、天井のあちらこちらに浮かぶように、畳一枚ほどの和紙のスクリーンがあります。同じく、壁の代わりに、可動式スクリーンにも使われています。これは、新潟の環濠集落にある《高柳町 陽の楽家》や、六本木の《サントリー美術館》で和紙の壁を手がけ、隈さんと実験的な和紙づくりを協働している、手漉き和紙職人・小林康生さんによるものです。《ジャパン・ハウス・サンパウロ》では、エキスパンドメタルに和紙を漬け上げたスクリーンとなっています。
 この和紙のスクリーンからわかることは、これが市場競争から完全に見放され、建築の一部として取り扱うには、まったく役立たずなんですけれども、だからこそ、人の皮膚を包み込み、人の身体を守ることができるということです。その意味で、「衣服的なもの」という表現がふさわしい、と私は思います。疲れないし、「ホッとした安心感」という面白さがある。
 しかし、これは一体、何を意味するのでしょうか?

隈:これはすごく面白いポイントです。変化をどう受け入れるか、ということです。
 設計していると、いろいろなトラウマがあります。つくったものが汚れたり、すぐにダメになったりして、「怒られる」のです。磯崎さんが「ポリティカル・コレクトネス」と言ったけれど、1990年代に建築に対する世の中の見方が、どんどん厳しくなりました。建築も「メンテナンスが必要となることはすべきではない」というプレッシャーが高まりました。
 たとえば、《サントリー美術館》では、ガラスの外側に和紙を貼りました。一般的には、外側では和紙が汚れてしまうから、「手が絶対に触れないように、ガラスで両側から覆うべきだ」というのが、いわゆる大組織で教えられる和紙の使い方です。しかし、それでは和紙の質感が出ないし、「これは和紙ではない」と思ったから、ガラスの外側に和紙を貼るというディテールを提案しました。
 すると、《サントリー美術館》の関係者から、「隈さん、年間に何十万人が入館する美術館ですよ。1年でボロボロになってしまいますけど、隈さん自腹で弁償できるんですか!」と怒られたわけです。「ええーっ?!汚れるのは絶対ダメなの?」と思うんですが、設計していると、そんなトラウマがたくさんある。
 たとえば、室内に木を使うとき、装飾のために表面に薄い木を貼る「練り付け」という技術があります。ある種、工業的なのであまり好きではないけれど、しかし、その「練り付け」でさえも、「手で触るうちにキズになるからやめろ」と言われ、「本物の木を使うのはやめて、木目調の模様を印刷した塩ビ製のダイノックシートを貼ってください」と言われる始末です。
 1990年代以後の大きな時代の空気としては、そんな生きづらさがある。人間が触ると、木にキズがつくという当たり前のことが、なんでいけないんだろう、と思う。

和紙のスクリーンの細部

 《ジャパン・ハウス・サンパウロ》の和紙のスクリーンは、エキスパンドメタルをドロドロの和紙に漬け、ディップして引き上げたものです。
 ずいぶん昔、新潟の高柳にある小林さんの工房を初めて訪ねたとき、ドロドロの和紙に木の枝を漬け込んで、和紙まみれとなった木の枝でカゴなどをつくっているのを目にして、「カッコいいな!」と思いました。そこから和紙のスクリーンのアイデアが浮かびました。
 でも、その和紙まみれになった木の枝のカゴは、和紙をディップしただけで、表面はぐちゃぐちゃです。だから、小林さんは、自分の家では使うけれど、それを商品にしようとは思わない。必ずクレームがきて、「欠陥品だ!」となるからです。
 今はそういう時代です。とはいえ、ブラジルの人は怒らないかもしれない、と思った(笑)。ブラジルには、日本よりもおおらかな性格の人が多い。それに加え、全部ぐちゃぐちゃだから、ぺっちゃんことなったのが一体どこなのか、よくわからない状態です。これならいいだろうと思いました。予想通り、「面白いね」と受け入れてくれました。
 みんなが触ると、つんつんとした和紙のエッジが徐々に消え、ツルツルになっていくかもしれない。そんなふうに変わっても、僕はキレイだと思う。台無しにならない。それを確かに評価する社会でないと、生きづらい。

 《アオーレ長岡》のナカドマ


大津:
つづいて《アオーレ長岡》の越後スギのパネルです。《アオーレ長岡》は新潟のJR長岡駅前で、市民ホールや市役所、議場などが一体となった公共建築です。周りの敷地境界線まで寄せ、外観をなくす代わりに、敷地の真ん中に大きな屋根付き広場「ナカドマ」があります。
 このナカドマに点在した木のパネルは、《アオーレ長岡》から15キロ圏内で採れた越後スギで、あえて皮を残し、わざと節のある状態のまま、壁や天井にパラパラと取り付けられています。屏風状となったり、ナカドマの天井を巡ったりしながら、居心地良い雰囲気が生まれています。これは「衣服的なもの」と言うよりも、木の温もりと言ったほうが良いのかもしれませんが、《アオーレ長岡》のナカドマに自分の身を置いてみると、越後スギのパネルに、自分が包み込まれているような身体感覚があります。

隈:長岡のときも怒られましたね。普通、こんな節だらけの木を使いませんから。けれども、建物が大きくなればなるほど、均一なものを使うと、遠くから見ると木に見えないんです。単なるベージュ色のパネルに見えてしまう。たくさんの節があって、汚れているほうが、木らしく見える。わざと寸法もランダムにしました。
 すると、建物の説明会で、「長岡には、越後スギの立派なものがあるのにどうして、汚い、節だらけの木を使うんだ!」という市民の否定的見解が山ほど寄せられました。「この節だらけの木のパネルは、風呂屋のスノコにしか見えない」と批判されたり、僕も「確かに似てるな」と思ったりしたんですが(笑)。
 というわけで、上手く行かないだろうと思ったわけです。しかし、当時の森民夫市長が、「でき上がりを見てください」と市民を説得してくれた。だから、この節だらけのスノコができ上がりました。ここは一部、雨が降りかかるから、スギの色が変わるし、パネルにまだらな色むらもできます。僕自身はその感じがすごく面白いと思ったけれども、いずれにしても当時の森市長のような人がいなければ、最後まで遂行されなかったでしょう。
 さきほどの《ジャパン・ハウス・サンパウロ》の場合は、外務省のプロジェクトですが、数年後に撤収予定だというある種のテンポラリーなものでしたから、和紙のアイデアが実現できました。
 中国の《竹屋 Great (Bamboo) Wall》も同様です。外壁に竹を使ったのですが、竹の色がすぐに変わってしまう。ではなぜ中国のクライアントが提案を認めてくれたのかと言えば、「竹は取り替えても、値段が安いから」というわけです(笑)。

大津:《アオーレ長岡》は現在では7年ほど経ち、越後スギのパネルは時間が経つことで、かなり味わい深くなっています。質の良い建築になったと真壁さんも指摘されています。
 さらに掘り下げて、本のなかでは、「それぞれの地域に、継続性のある舞台があり、人は死んでも舞台だけは残り、100年、200年の長い時間にわたって、舞台が存在し続けるという継承性こそが、人間にとって根源的な安心につながるし、文化の本質である」という隈さんの非常に優れた考察に触れました。
 こうした根源的な安心感を「ナカドマ」で見つけたように思います。建築家がつくった建物はその地域にとって新参者ですが、時間が経つにつれて、だんだん愛着がわき、地元に馴染んでいく。

隈:建築はパーマネントなものではありえません。どんどん汚れるし、色が変わっていく。それが進みすぎたら、部分的に取り替えるとか、塗り直すとか、手直しをする。
 変わることのほうが当たり前であるのに、永遠に汚れないことや、色が変化しないことを追求する社会には、強く疑問をもちます。

(後編につづく 3月1日アップ予定)

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