music_metronomeのコピー

怪談:「100台のメトロノーム」

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 僕はぼうっとメトロノームを見つめている。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 右に左に休むことなく揺れる様を、時を忘れたように見つめている。時を刻み、時を無くして、ただそこに有り続ける。棒を跨る重りがまるで顔のように僕に訴えかけてくるような・・・。

「ほら何ぼうっとしてるの。」
 無粋な罵声と共に現実へと引き戻された。ここはピアノ教室。
「早くやりなさい。」
 僕は慌てて練習曲Aの5を弾く。その楽譜には「五本指の独立を強化」などと説明が書かれており、ひたすら単純なメロディを32回も弾かされる。赤いメトロノームの音に合わせて。

 ドレミファソファミレ、ドレミファソファミレ……

 カチ、カチ、カチ、カチ。

「はいずれた。やりなおし。」

 今間違えたのは8回目だ。難しい。とても難しい。ドレミファソファミレとただ弾くこと自体は簡単なのだが、32回もほぼ等間隔に刻むメトロノームに従って粒を揃えて弾く事が難しい。
 一息ついてからやり直そうとすると、スメ子先生はすかさず「さっさとやりなおす。」と言う。そこで無理やりすぐやり直すのだが、僕の脳みそが非常に頑固で、一息つけない事に内心怒っているのか、今度は3回目のフレーズでひどい間違いを犯す。スメ子先生は極めて鋭いため息をつく。「はぁ、もう一度。わかってる?テンポは大事なの。このメトロノームを神さまだと思って、やりなさい。」


 ハラダ・スメ子先生はここ最近僕らの町に引っ越してきた風変わりなピアニストだった。夏だというのに異国の鳥のような派手な柄の厚手の服をトレードマークのように着こなしており、当初は噂の的であった。
 そんなスメ子先生は、世界を回って手に入れた奇妙なハーブの栽培をしており、この町に越して早々、「魔女のハーブティー講座」なるものを開いて僕らの母たちから好意を集めていた。そのハーブティーは僕も母に勧められて飲んだ事があるが確かに美味しいし、心が落ち着いて健康になれる気もした。
 そんなスメ子先生がピアニストでもあると知った町内会会長は、会場を借りてコンサートを開いた。 その演奏はハーブティーの穏やかさとは打って変わって、極度に厳しく窮屈ささえ感じる演奏だった。時々漏れ出てくるのは人を制圧しようとするようなリズム感。後々になって実感するのは、メトロノームのように正確すぎるテンポ感。僕は正直、感動というよりは息苦しい気持ちで一杯であった。しかし僕の母はすっかりスメ子先生に心酔しきっていた。「まるで魔法だ・・・!」と。
 かくしてこの町にピアノレッスンのブームが湧き上がり、ほとんどの親が自分の子にスメ子先生のレッスンに行かせた次第であった。


「いやだよう……いやだよう……。」
 泣きじゃくりながら僕と共に歩くこのおさげの女の子、ルミもその一人だ。
「また怒られる……。メトロノームの音をカチカチ耳元で聞かされる……。」
「だ、大丈夫だよ、ルミちゃん。」僕はあたふたと励ます。「スメ子先生は、き、きっとルミちゃんを信じてるんだよ。なんと言うか、その・・・自分を信じれば……うまくいくんじゃないかな。」
 歯の浮いた励まししかできない自分自身に僕は苛立ちを覚えている。
「どうやって信じるのよ……。」ルミコの声には自棄が含まれていた。「家でも私は怒られてばっかり。家ではお前は何も良いところがないから何か特技を磨けと煩いし……コウくんだけは優しいよ、ありがたい、そうなんだけど、でも、私、あっちでもこっちでも怒られるしかなくて、何を信じればいいの。」
「う・・・。」僕は言葉に詰まってしまった。
「でも、先生も、先生だから、」なんとか言葉を選ぶ。「き、きっと、必ず君を良い方向に導いてくれるんじゃない?」
 ルミはしばらく黙る。「ありがとう。」そして二人とも黙ってしまう。レッスン時間は18時、もうすぐ。今は夕日が沈みがかる頃だ。


「ダメなの?」スメ子先生は口を真一門閉じた般若のような形相だ。「ねえ、どうしてできないの?」

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 ルミは歯を食いしばって何かを我慢している。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

「ねえ?」
「ごめんなさい。」ルミは呟いた。「私、できないんです。」
「できない?」
「はい。」ルミは謝ってるのに妙に冷めた顔をしている。「私多分、もともとできっこないんです。不器用だから。」
「そう……。」スメ子先生は顎に手を当てて考える。メトロノームは鳴りっぱなしで、徐々にそのテンポをゆるめている。

 カチ、カチ、カチ……カチ……

「・・・破門ですよね。」
「いや、いやいや、ちょっと待って。」スメ子先生は慌てている様子だった。「それだったら、特別コースはどう。テンポ感が簡単に、そして絶対に鍛えられるコースがあるの。」
「簡単、なんですか?」
「ええそうよ。私が何か言う事もない。その方がいいじゃない?」
「・・・。」
「このコースを終えればあなたは音楽の神のような存在になれるといってもいい。私が保証する。」
「か、神……?」
「ええ。」
「そんな神だなんて……そこまで……」
「言い過ぎたかしら。とりあえず、あなたはステップアップするの。間違いなく。」
「……。」

 カチ…………カチ…………


「どう?」
「……やります。」ルミは決然と言った。
「わかったわ。」スメ子先生はにこりと笑う。「ルミちゃんはコウくんのレッスンの後に話すのでちょっとまっててね。」

 カチ…………カチ。

 そしてメトロノームのネジがついに緩んで動かなくなる。


 翌日、ルミの姿を見ることはなかった。近所、そして学校までも、その姿を見る者はいなかったのだ。

 翌々日も同様だ。僕がルミの家の近くに寄って彼女の親に尋ねてみても、「スメ子先生の特別コースの合宿よ?」と返すだけだ。

 翌週までもルミの姿はなかった。

 翌々週。僕はスメ子先生に叱られた。

 そして翌月。いない。

 さすがにおかしいと思った。学校を休みすぎである。いくら何でも、学校生活を放り投げてまでピアノの合宿に勤しむのは異常ではなかろうか。
 ルミの親にまた尋ねてみた。奇妙なことに、もはや返事すらしない。
 何かとんでもないことが起きたのかもしれない。何か探りを入れてみよう、と悪戯心が湧いた僕はひとつの案を思い付く。
 それはピアノレッスンの前に散々コーラを飲むことだ。なぜそのような作戦に出たか。一つは僕がコーラが好きだからである。もう一つは。

「先生。」
 レッスン中に僕は手を挙げた。「すみません、トイレに行きたいのですが。」
「え?」スメ子先生は眉を潜めた。
「いや、トイレに行きたいのですが・・・その・・・」
「ええ・・・。」スメ子先生はよほど行って欲しくなさそうである。僕の記憶では玄関とレッスン室を繋ぐ廊下にはトイレがなかった。つまりそれ以外の部屋は行って欲しくないのだ。やはり怪しい。
「言ったでしょ。ここのレッスンはトイレを提供できないから、用を事前にすませなさいって。」
「すみません・・・。」
「・・・仕方ない、行って。すぐ戻ってきてね。」
「はい。」

 我ながら嘘八百が上手いと思いながら、しかしコーラの飲み過ぎで本当に限界だったのでトイレで事を済ます事によりカタルシスを得た。さてトイレの扉を開けると廊下が妙に長く暗い。あえてレッスン室とは逆の部屋に向かうべくゆっくりと歩き始める。

 ある扉から砂嵐のような奇妙な音がかすかに聞こえてくる。テレビのとは違うもっといびつな騒音だ。僕がその扉を開けようとするが、防音なのか異様に重い。扉が開いた途端、部屋から凄まじい騒音、カチカチカチカチと激しい音量で廊下に響いたため慌てて僕は扉の中に入って扉を閉じる。

 そこはとても広い部屋で、会議のように並べられた長机の上にメトロノームが大量に並んでいた。スメ子先生がテンポの鬼とは知っていたが、こんなコレクション部屋を作るまでメトロノームに執着していたとは。そのパチンコのように騒がしい音の渦はたしかによく聞くとメトロノームの一つ一つがクリック音を奏でている。

カチ、カチ、カチ、カチ。

カチ、カチ、カチ、カチ。

「たす」、「けて」。

 僕は振り向いた。その声には聞き覚えがあった。

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「くる」、「しい」、「くる」、「しい」

「ああ」、「ああ」、「ああ」、「ああ」

 カチ 、 カチ 、 カチ 、 カチ 

「んー」、「んー」、「んー」、「んー」

 僕は恐る恐るメトロノームの振り子の棒に付いてた重りを見た。それはよく見ると人の顔をしていた。
「あ……あっ!」
 嗚咽のような悲鳴が出た。はっきりと人の顔をしているものもあれば、面影が喪われてただの重りとなろうとしているものもある。

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「ルミちゃん!」僕は思わず必死にメトロノームの一つを搔きわけるように探した。重りの一つ一つの顔を見て、顔が薄れて「んー」しか言えなくなっているメトロノームを見て、そんなことは、あってはならない、と勝手に涙を飛ばしながら、メトロノームの一つ一つを搔きわけるように探して。

 そしてとうとう見つけた。おさげの髪型をした、苦しい表情のルミの顔が、メトロノームの姿で左右に振られていた。

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「ルミ、うそだ、ルミコちゃん……!」僕は指が震えていた。「教えてくれ、これがその、特別合宿ってやつの正体なのか?」

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「ルミコちゃん……教えてくれ!」

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

「たす」、「けて」、「コウ」、「くん」

 ルミはそれ以外の言葉を発する事がなかった。


「許さん……。」僕は震えた指を握った。「絶対に許さない……あのクソバ」
「クソババアが何だって?」耳もとで囁かれた。「本当にテンポも規則も守れないのね。君は。」


 僕はこれまでの僅かな記憶を思い返した。スメ子と名乗る『本物の魔女』が僕に告げたいくつかの言葉の断片が聴こえる。

「いいかい?愚か者。また引っ越すわけにはいかないの。魔術を使ってる事がバレたらピアノが弾けなくなるどころか生きて町を歩けるのかわからないからね。」

 カチ。

「だが同時に私はお前のような馬鹿者から一つ学ぶ事があった。私のこのメトロノームコレクションは100台まで集めたかったのだ。ちょうどお前が100台目だ。お前のようなテンポの守れないやつのお陰で達成した。本来の目標にすぐ到達するとは、やはりテンポをひたすら守るだけじゃダメなんだなと。それには感謝しよう。」

 カチ。

「君にさっき無理やり飲ませたこのハーブエキスはね、体の一部を交換する魔法の作用がある。ほら見てごらん。」僕の首の上には、メトロノームの台形の重りが。

 カチ。

「だから、あなたは音楽家の中でも神のような存在になったのよ。わかる?メトロノームってこと。みんなあなたに従っていく。喜ぶべきよ。」魔女は微笑んで立ち上がり、戸口に去って行く。「じゃあね。」メトロノーム頭の僕の体も立ち上がり彼女についていく。

 カチ。

 ・・・まずい。頭が左右に振れている。クリック音、脳髄を貫通するような鋭い刺激。何もかもが薄れる。壊れる。鳴らないでくれ。頼む。

 カチ。

 やめろ、やめろ、やめてくれ、思い出せ、思い出すんだ。ほら、僕のこれまでの家族。思い出。幼馴染のルミ。あ、全てが失われたんだ。全てを失ってしまったんだ。

 カチ。

 失ってしまった、手も足もない、顔も棒から動かない、なすがままに振り子に揺られる、それしか。

 カチ。

 この振り子に合わせて誰かがピアノでも弾くのだろうか。これほどの屈じょく・・・あれ、くつじょくって何て漢字だっけ?

 カチ。

 あ、かんじがわからない、とおもっちゃだめだった。おとがなってから、なにもかも、かんじがわからなくなって、しまった。やばい。これはほんとうに。

 カチ。

 えーと・・・ぼくはその、どうしたんだっけ・・・。えーと。なにかしなくちゃ。

 カチ。

 ぼくは・・・えっと、なにかいわなくちゃ。「・・・。」

 カチ。

 ぼくは・・・。「・・・。」

 カチ。
 ・・・。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。「・・・。」

 カチ。

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