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レガシー作曲

 こんなことをいったら一種の敗北宣言と受け取られるかもしれないが、自分は今時代におけるクラシック文脈の作曲はレガシー(過去の遺物)なのだと考えている。

 そもそもクラシック音楽の価値としてよく語られうるのが「歴史の洗礼を浴びた美しさ」ということだが、これはすなわちレガシーへのあこがれそのものなのだ。博物館に行ったときの美しい彫像を見た時の感動、ストーンヘンジの意味深なフォルムを見てイメージが湧いてくるのは、長い歴史で生き残った人工物というストーリーから感じる、現代の時間とは違う時間が流れているような、すなわちこの世のものでないものをみて感動する。特にそれが自分の国どころか他国の遺物であるほど、そのこの世のものでない異質な印象はより高まることであろう。そもそもそれらになんら興味のもてる要素がなければ退屈なものかもしれない。

 レガシーなのだとしたら我々がその文脈で曲を作る意味は何なのか、ということになるが、そもそも今の創作表現では、Youtuber等を眺めてみても、アーティストが歴史という巨大な物語のなかの登場人物として現れること自体少なくなっているように感じる。どちらかというとSNSのフォローやYoutubeのチャンネル購読のように、アーティストやプロジェクト個々ひとつひとつに違った物語があり、ファンや育まれる人間関係などのいわば「小さな」物語の集積によって成り立っているように感じる。

 そういうわけなので、歴史的文脈から私がどのように表現するのか、という考えを、私という人間の物語においてレガシーをどのように用いるのか、という風に中核を私と言う個人に置くよう考えを切り替えるようになったのである。

 このノートもあたかも大きな主語を用いているようだが、実際は私自身がこのような考えをもつに至った、という私の物語の説明に過ぎない。

 私がSNSでクラシック文脈の作曲を貼る、というのは、私が単純に特に理由なくクラシックが好きだからであり、その物語を表しているだけに過ぎない。
 そういったフランクなあり方をまずは考えてみたい。

 私という生き物として何を作曲する?



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