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アートの見方について学ぶこと③

上記の本を参照
(※前回の続き)


10. どこから、そこからどう思う?の問いで深める

どこからそう思う?=主観的に感じた意見の根拠となる事実を問う
そこからどう思う?=作品内の事実から主観的に感じた意見を問う

そうしてアウトプットしてアートに対しての感想を深めていく。



11. 無性に惹かれる絵を生み出す方法


カンディンスキーは、クロード・モネの描いた「積みわら」という作品を見て、パッと見何が描かれているのかわからなかった。
だがそこで分からないからこそ人を惹きつける作品が生まれることに気づいたワシリー・カンディンスキーは、絵の中に具象物を描かない事が大事だと気づいた。



12. アート鑑賞には2種類のやりとりがある

背景とのやりとり(作者の考え、人生、歴史的背景、評論家による分析、美術史における意義など)
作者とのやりとり(作者⇆作品、作品⇆鑑賞者)

音楽鑑賞の際には「作者はどんな体験からこれを作ったんだろう」と考えずとも共感し、感動できる。同じようにアート作品を見るときでも、作成時の作者がどんな思いを持って作ったのかなど考える必要性はない。
音楽を聴くときのように素直に感じるままに自由に捉えれば良い。



13. アートという植物を育てる物


マルセル・デュシャン曰く「作品はアーティストだけによって作られるものではない。見る人による解釈が、作品を新しい世界に広げてくれる。」



14. 何故こんなに情報量に差があるのか


その昔、千利休の庭に朝顔が見事に咲き誇ってることを知った豊富秀吉は「是非見たい」との思いで参じたが、朝顔の花は全て利休の手によって摘まれていた。
利休は代わりに、茶室へ一輪の朝顔を飾り、それを見せた。
その綺麗な一輪の朝顔を手がかりに、大量に咲いていたであろう庭の風景を、「自由に描ける秀吉の頭の中」で楽しんでもらおうとしてたのでないだろうか。
「松林図屏風」とクロード・ロランが描いた風景画を比べると、前者は余白が非常に多く作られている。
これも、余白を鑑賞者の想像で埋めて楽しんでもらう為の表現方法とも考えることができる。



15. どこまで常識を脱ぎ捨てていくのか


アートの常識をめぐる5つの質問
(※なぜそう思うのか理由も考える)

・アートは美を追求するべきだ(YES/NO)
・作品は作者自身の手で作られるべきだ(YES/NO)
・優れた作品を作るには優れた技術が必要だ(YES/NO)
・優れた作品には手間暇がかけられているべきだ(YES/NO)
・アート作品は視覚で味わえるものであるべきだ(YES/NO)

ここまでnoteを見てくださった方、是非上記について考えてみていただきたい。



16. まずは視覚だけを使う


マルセル・デュシャンの作品「泉」という作品は実質、中古の男性用小便器にサインを書いただけのもの。
この作品は前回の章にある5つの質問においてを「NO」と示す作品であり、だからこそ「アート=美しいもの」という固定概念を打ち崩す20世紀において最も影響を与えたアートとなった。



17. 茶室空間から逆算し考え尽くされた作品


千利休がプロデュースした「黒楽茶碗 銘俊寛」という作品がある。
これはお世辞にも美しいとは言えない表面のボコボコとした歪な茶碗だが、想像してみて欲しい。

千利休の好んだ茶室はとても狭く、たった2畳のものもある。
部屋は質素で壁は土壁。分厚い壁の上方には小窓があり、障子が張られている。この小窓が茶室の唯一の光源である為、天候によっては薄暗くなる。

よって、いくら茶碗の装飾が美しかろうと視覚で楽しむことは難しい。
そこで利休は茶碗を手で持った時の触感や、口にあて、注がれた温かいお茶が、形の歪さからゆっくりと口の中に流れてくることを意図して作ったのではないかと考えられる。

この作品はマルセル・デュシャンの作品に良く似ている。


本日はここまで

◎今日の呟き
もう便器にサインを(しかも汚い字で)書いただけの作品がアートになってしまったら本当になんでもありですよね。
アートの楽しみ方?はなんとなく掴めてきたんですが、感じたのは「アートは場所を選ぶんじゃないか」ということです。
実はデュシャンは、便器にサインを書いただけの作品を「アートだ」ってことでその時の社会的立場を使って権威のある美術雑誌に載せたらしいんです。
そりゃ、他の全てのアート作品は「美」を追求していたり、一般人がみて「素敵」だと思う価値観に沿った作品ばかりなのに「汚い物」という認識のある便器をそんな雑誌に載せたら話題にもなります。
逆に、普通の公衆トイレの外にデュシャンの作品を置いてたらどうでしょう。僕なら「ああ、最近交換したのかな?捨てる予定だから誰かがサインでもしたんだろう」としか思いません。反対に言えば、人間は環境によって物の捉え方を無意識に洗脳されてるとも考えられます。
ここまでまとめてきた中で、アートとは鑑賞者がいて成り立ち、最終的には見る側に主導権があることから、いかに常識を衒った見せ方をするのかで作品の良し悪しが判断されてしまうんじゃないかと思ったりしました。

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