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ハイデガー「存在と時間」断片、死の分析について

死とは、みずからが引き受けなくてはならない存在可能性である。この、ひとごとでない存在可能性は、現存在に差し迫っている。そして、端的に世界内存在に関わらせられている。

死とは、現に存在しえなくなることの可能性である。そうなると、現存在はひとごとでなち自己の存在可能に指し向けられている。そして、ほかの現存在へのあらゆる連絡が解かれてしまう。したがって、これは係累のない、もっとも極端な可能性でもある。

現存在は、死の可能性を追い越すことができない。なぜなら、死は、現存在が絶対に不可能になることの可能性だからである。

つまり、死は、人ごとでない、係累のない、追い越せない可能性として、現存在に差し迫っている。

これは、実存論的な可能性である。なぜなら、「おのれに先立って」というあり方で、現存在がおのれ自身に開示されているからてある。

そして、死に臨む存在において、この関心が備わる構造契機が具体化される。「終末に臨む存在」は、以上のような現存在の可能性に臨む存在でもある。

なお、人ごとでない、係累のない、追い越せない死の可能性は、現存在が追加的に身につけるものではなく、現存在が実存するかぎり、はじめからこの可能性の中に投げられている。

死が世界内存在に属していることは、不安の心境において現存在にあらわになる。

死の不安は、人ごとでない、係累のない、追い越せない存在可能を目前に控えた不安である。これは、世界内存在に臨んでおり、端的に現存在そのものの存在可能を案じている。

死の不安は、個々人の偶然的な死亡の恐れではなく、現存在の根本的な心境である。これは、終末に臨む世界内存在として実存することの開示されたありさまである。
このような臨死の実存論的な概念は、人ごとでない、係累のない、追い越すことのできない存在可能として、被投的な存在である。

これは、単純な消滅や、絶命や、死亡の体験とは全く異なっている。

まとめ

・死は、人ごとでない、係累のない、追い越せない存在可能性。
・死が差し迫ると、他の現存在との交流が解かれてしまう。
・死の不安は、現存在の本質的な心境。

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