見出し画像

ウィリアムソン『哲学の方法』

Timothy Williamson, Philosophical Method: A Very Short Introduction (Oxford: Oxford University Press, 2020) の翻訳。
別の書肆で2018に初版が出ているが、Very Short Introductionに入れ直すにあたって実質的な修正は無いとのこと。
著者は分析系の認識論の大御所。


内容紹介と感想

スローガン的には「まともな通常科学としての哲学」だろうか。
結語に次のようにある。

哲学はそれ自体がひとつの科学であり、ほかの分野と関わり合いながらも、それらと同じように自律的な学問である。

p.170

これについて、もう少し深掘りして、Williamsonがどのような哲学を擁護しているのかについてマトメてみる。

哲学の方法:現存の諸方法を擁護しつつ、思考実験によるモデル間比較を有望視

まず、哲学の「方法」について。

Williamsonは哲学の諸方法を瞥見した上で、それぞれの美点を認め、大胆な方法論的革新主義の立場を退ける。つまり、「哲学とは概念分析を通しての疑似問題の解消に尽きるのである」とか、「思考実験には証拠能力が無いのであるからして、実験哲学によって取って代われられるべきである」とか、「歴史的コンテクストを超えた真理などというものには到達不可能なのだから、哲学史研究に沈潜すべきである」といったrevolutionaryな立場はWilliamsonの採るところではない。

代わってWilliamsonが有望視するのは「モデル構築と、思考実験によるモデルのテスト/モデル間の比較考量」による哲学的探求のようだ(ただし、これを「唯一の哲学的方法」とするものではなく、モデル構築が難しい哲学的問題もあるし、実験の設計が可能ならば思考実験に限る必要もない、ともしている)。模範例として挙げられるのはCarnapの内包意味論。挙げられていないけど、Tarskiの真理理論とかも高評価なのではないか。

哲学の問題:普遍理論の探求? 必然的な本性の探求?

次に、哲学の「対象」、ないし、哲学の「主題」や「問題」について。

これについては、本書のテーマでないということもあって、Williamsonの見解はちょっと分かりづらいと思った。大きくは、

  • (A)「万物の理論」を目指す、「普遍的な問い」「一般的なレベルの問い」を扱うのが哲学である

という方向性と、

  • (B)この世界で現に偶然成立している事態を超えた「反実仮想の問い」や「必然性に関わる問い」を扱うのが哲学である

という方向性の2系統が述べられているようである。

巷間しばしば言われる、

  • (C)かつてはすべての認識活動が哲学であったが、その中で科学的方法が確立されたものは個別通常科学として分離していったのであって、いまだ通常科学化されざる問い(価値についての問いや、理由についての問い)が哲学の問いである

といった哲学観には、どちらかというと批判的なようだ。理由は明示的には語られていないけれど、「同じ問題を、哲学と他の分野とが、別々の関心のもとに取り扱うことがあるではないか」というのが(C)への反対論の理由かと思う。本書の中の例で言うと、pp.91-2の、「5+7=12と考えるという心的出来事」について、脳神経科学者の取り組み(どの神経回路が活性化しているんだ?)とは別に、哲学者の取り組み(ロボットや異星人が5+7=12と考える時にも当てはまるような、この出来事の一般的なタイプが持つ特徴は何だ?)がある、というのが好例と思った。

また、Williamsonは、「哲学の問い」を(A)・(B)の方向に求める反面、「分析的真理」(本書では「概念的真理」)の概念には冷淡である。該当の記述はpp.51-7あたり。批判のポイントはQuine的なもので、「概念的真理と非概念的真理とを切り分ける、使いものになる区別が可能かどうかは明らかではないのだ」(p.55)というのが結論。
関連する話題として、「公理群からの演繹のみで組み立てられた形式系は、表現力が弱すぎるか、逆に何でも言えてしまうかで、実のある哲学理論にはならない」という論も面白かった(pp.101-2)。Williamsonは「モデルの構築とそれの比較」という哲学観を擁護する、と先に書いたけれど、モデル同士の比較については、アブダクションを重視し、経験科学的・帰納的なやり方をよしとするようだ。

ほとんどプラグマティズムのようにも聞こえるが、Ch.2のp.19などを読むと明確に表象主義・実在論なのはちょっと不思議。意味論とか形而上学の方で、なんか実在論を採る理由があるのかな。

感想

以上、わたしが読み取った内容を「哲学の方法」「哲学の問い」という観点でまとめてみた。その上での感想は次の通り。

  • 現に行われている分析系の主流派の哲学実践を概ね擁護していると思った。わたしもこの伝統に少しは親しんできたので、そうだよなーと思いながら読んだ

  • 概念分析による疑似問題の解消っていうプログラムはそこまで絶望的なのかなって思う。「分析性」っていう概念は擁護不可能かもしれないけど、真正のdisagreementじゃなく、単なる議論のスレ違いって、けっこう起きているんじゃないかと感じる(Dreier 2004の論点? に近いと思うんだけど、xxxについてのデフレ主義を採り始めると、非実在論なんだか実在論なんだかワケわからんちんな立場に落ち込んじゃって、full-fledgedな実在論とは話が噛み合わない、みたいな)

  • 価値の問題、規範の問題、当為の問題についての取り組みがあまり取りあげられないのが少し不満。「常識に対する最善の説明になるようなモデルを作って総合力で比較考量する」という哲学観だと、常識破壊的な、社会の道徳的改善につながるような規範理論はどう扱えばよいのか?

レジュメ

Ch.1「序論」は問題設定(哲学とは何か? その方法は?)。

Ch.2「常識から出発する」では、哲学にとっての常識の役割が論じられる。Williamsonによれば、「常識」は、哲学的問いの出発点となる(pp.10-2)とともに、哲学理論に対する一応のエビデンスになる(pp.13-21)。たとえば、懐疑の果てに「窓越しに外を見ることは不可能だ」とか「時間は実在しない」などと論じる哲学理論は、常識を根拠として否定してよい(p.13)。

後者の論点を補足して、哲学における第一級のエビデンスとして「見かけ」を採用する立場が拒否される。なぜなら、「エビデンスはチェック可能で、再現可能で、ほかの人が精査できるものでなければならない」(p.17)から。これはナルホドと思った。現象的なもの/センスデータ的なものは懐疑を巡らすとメタに回れて強いわけだけど、メタに回れるからといって科学の礎石になれるわけではない、というのはいい斥け方だと思った。

pp.19-21では、常識の信頼性(エビデンスとしての強さ)が論じられる。
常識というのは、実践に役立つように進化的に彫琢されてきたものなわけであって、真である保証はなくないか? という反論に対して、「概して真理は有用だから常識が系統的に偽なことはない」。また、文化や集団によって常識は異なるではないか? という反論に対して、「それ以上に一致の方が大ではないか」と再反論。
ここは説得力がないなと思った。あと、認識論に充用するようなエビデンスについてはそれでいいかもだが、道徳理論や政治哲学についてはダメじゃないかなと感じた。進化論的に彫琢されてきた心的モジュールが、既存の社会秩序に水路づけられた上で、諸主体との相互作用の中で導き出す「常識的」判断が、価値世界の(?)実相を(?)ある程度とはいえ正しくトラッキングできるのかは激しく疑問。
懐疑の無限後退にどこかで歯止めをかけるために、常識的信念に一定のエビデンス能力を認める、というモチベーションは分かるけれど……。

Ch.3「議論する」は、対話体の伝統など、「哲学の方法としての議論」の章。Williamsonは『テトラローグ』で対話体を書いてみているらしい。あと、むかしは火刑避けや検閲避けに対話体が重要だったというのは笑えないけど面白い(これからの時代に再び重要かもね、などと考える)。

Ch.4「言葉を明確にする」は、「概念分析による疑似問題の消去こそが哲学であり、哲学の方法はそれに尽きる」という、いわゆる論理実証主義的な哲学観の批判的な紹介。
自由意志論においては「自由意志」という概念を明確にすることはモチロン大切だね(p.43)という導入から始めつつ、でも、哲学にとって概念の明確化の重要性は、他の学問分野と根っから異なるってわけではないよ、と論じていく。数学的対象についてのプラトニストであるGödelに対して、「君は数学的概念を誤用しているんだ!」と説教する哲学者の滑稽さ(p.50)という辛辣な例証が面白い。
pp.51-7は、概念的真理/非概念的真理の明確な区別は不可能だという論と、にもかかわらず(公理主義的に構築された数学のように)明晰な理論立ては可能だ、という論。ここは十分理解できなかった。

Ch.5「思考実験をする」は、その名の通り思考実験についての章。まずは、規範倫理学や認識論の有名な思考実験を持ってきて、思考実験が哲学を前進させていますね、という紹介。次に、哲学者間でも取り扱いが割れる、Chalmersのゾンビ事例を持ってきて(p.65)、思考実験のエビデンス能力に対する懐疑論を導入する。
で、それに続いてWilliamsonによる思考実験のエビデンス能力の擁護論が展開される(pp.66-70)。擁護論は、人間が持つ反実仮想の能力に基づいたもので……訳者解説でも補足されているけど、これは他著を読まないと分からないかなーと思った。わたしは分からなかった。

その後は認識論業界の内輪ネタが2つ。
第一。業界には、思考実験は「直観」intuitionを備給してくれて、その直観が正当化を与えてくれるのだ、と論じる一派があったり、はたまた、直観的判断とは非推論的な判断であり、ダイレクトな正当化を与えてくれる(?)特別な心的状態なのだとする一派があったりするようだ。で、Williamsonは「直観」概念に適切な特徴づけを与えることで認識論を前進させようという試みには総じて冷淡なようだ。
第二。思考実験にはバイアスが指摘されており、それが背景ともなって近年の「実験哲学」の盛り上がりを招いた。Williamsonとしては、バイアスに気を付けることは確かに大事だが、だからといって思考実験が即すべて否定されるわけでもないよね、という立場のようだ。

Ch.6「理論を比較する」は哲学の理論間比較について。結論的なセンテンスは次:

理論の比較には自然科学と似た基準を用いることができる。単純性、情報量の多さ、一般性、統一力、エビデンスとの適合といった基準である。こうした一般的方法で理論選択を行うことを「アブダクション」という。

p.94

方法としてのアブダクション擁護の論拠として挙げられるのは2点で、いずれも説得的:(1)同一現象を包摂しうる理論は複数構築可能なので、よりアドホックさのないシンプルでエレガントな理論を採る等の総合力勝負が必要;(2)データには測定誤差が付き物なのだから、現象を100パーセント漏れなくカバーできるグロテスクなアドホック理論ではなく、(誤差を説明し損ねるが)予測力やシンプルさにおいて勝る理論の方を採用すべきである。

Ch.7「演繹する」は哲学の方法としての演繹について。まず、大前提として、演繹は大事だということを確認した上で、Williamsonは「演繹だけでは哲学はできない」と論じる。

Ch.8「哲学史を活用する」は読んで字の如く。他の学問分野におけると同様、研究史を踏まえることは重要だが、「哲学は哲学史に尽きる」という立場には否やを突きつける。

Ch.9「他分野を活用する」も同様。哲学研究において他分野とのコラボは大切だの論。Williamson自身について言うと、経済学者との共同研究で認識論理をやったのは実りが大きかったらしい(pp.144-6)。あと、政治理論においてはエビデンスとして実証史学を使わなきゃダメだ、というのはその通りと思った(pp.134-6)。最近、BatailleやArendtを斜め読みして、それって実証的にどうなの、と思うことしきりだったため……。

Ch.10「モデルを作る」は、冒頭でも紹介した、Carnap内包意味論を模範例とするようなモデル作りのススメ。この章では、モデル作りによる哲学と対照して、Popper的な反証主義的な哲学観がやや批判的に取りあげられているのが啓発的だった(p.168)。
すなわち、「普遍法則の提唱と、それへの切札としての反例提出」というPopper的反証主義的な理論観は、どれだけエビデンスを積み上げても「反例がないことの証明」には至れないのだから絶望的である;それよりも、予め現実の一定側面を捨象して、あえて単純化したモデルを作り、それをあれこれ弄り回して、新奇な推測や仮説を進めていこうではないか! という感じ。

Ch.11「おわりに——哲学の未来」は訳書で2ページだけの、スローガンの繰り返しのまとめの章。

問題関心別索引

ページ番号は訳書のもの。

  • 哲学の問い

    • 普遍の、一般的なレベルの、そもそも論の探求としての——:10-2, 77-9, 150-1

      • 「一般的な問題」:10-2

      • 「万物の理論」としての哲学:77-9

      • 量子力学の哲学や時間論(は、理論物理学の基礎研究と違いが分からないこともある):150-1

    • 必然的な本性の探求としての——:62, 91, 143

      • 「あらゆる現実のケースだけでなく、あらゆる可能なケースでも成り立つ主張」:62

      • 「ロボットやわれわれと根本的に異なる生物が5+7=12と考えるとき」:91

      • 「人間の心にたまたま付随する特徴とは独立に成り立つ理論」:143

  • エビデンス

    • ——としての常識(は一応もっともらしい):13-5, 19-21

    • ——としての見かけ(は私秘的なのでエビデンスたり得ない):16-9

    • ——としての直観(はconfusingだ):70-3

    • ——を包摂する理論は複数ありうるし、測定誤差もあるのだから、アブダクションによる理論選択が必要だ:94-7

  • Williamsonが高く/低く評価する哲学実践

    • Carnapの内包意味論(はモデルの好例だ):159-66

    • CarnapやWittgensteinの概念分析による疑似問題の消去(は、真正の問いを不当に卑しめるものだし、「概念的真理」の概念は定義困難だ):43-55

    • Gettier(は思考実験をよく活用して知識論を前進させた):59-60

      • ——に帰せられるJTB分析への反例は中世仏教哲学にも先行者がいる:59

    • Popper(的な反証主義はブラックスワンの不在証明などできないのだから望み薄だ):168

    • Thomson(は思考実験をよく活用して中絶擁護論を前進させた):61-2

    • 様相量化論理で俺自身が頑張っている!:117

  • 懐疑論

    • ——の実践的な有害性(温暖化否定論、タバコ害懐疑論):2

    • ——のストッパーとしての常識:13, 19

    • ——に有利な対審構造:39-40

    • 方法的懐疑の有用性と毒性。中庸を保つための(ほとんどプラグマティックな考慮に近い!)アブダクションの方法:131-2

  • 数学とのアナロジーとディスアナロジー

    • 実験的方法に依らざる学問としての——:5

    • ——専門家のGödelがその数学的見解の故に数学的対象についてのプラトニストだった点:50-1

    • 「概念的真理」抜きで、集合論と公理的方法によって現に明晰かつ生産的たり得ている現代——:55-7

    • ——と異なり、演繹だけで実のある哲学理論を構築するのは困難:100-2

    • ——の理論選択(公理の仮定)は単なる規約の問題ではなくアブダクティブな理論選択である:105-9

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?