連続ブログ小説「南無さん」第六話

ついに渾身の我を世に晒す時がやってきたようだ。南無さんは回覧板の文字を見てそう解釈した。

そこに書かれていたのは英語らしかったが、なにぶん南無さんは義務教育を放逐された身である。横文字が読めなくて当然だ。南無さんの識字はサンスクリットで止まっていた。

どうにかヘボン式で読むことはできたが、南無さんにはどうにも聞いたことのない言葉だったので、より近い自らの理解が及ぶ言葉に変換することにした。

記憶の深層に染み付いた言葉は、その者の生涯で折に触れて目の前に影を現すものである。

「ヴァレンチネ、日」…いいや、どうにもおかしい。察するにこれは「破廉恥」の間違いだ。これだから、市民は教養がなくていけない。やれやれ、と南無さんはかぶりを振った。破廉恥ね、と言われて育ったのだ。南無さんは。

教養ある善良な市民たる南無さんは回覧板を隣家へ回すと、よそ行きの越中ふんどしを締めて袈裟を羽織り、帯も締めずにやおら街へと繰り出した。

今日という今日は、いいのだろうな、なにせ、破廉恥の日なのだから、ああして自治会がいうのだから、間違いはないが、いや、それにしても、どうだろうか。

道中、信号を待つ間に南無さんはふんどしの締まりを見ながら、市井の人間の風体に首を傾げていた。誰一人、何一つとして破廉恥な格好をしていなかったのである。

冬の盛りを過ぎたとはいえ、今だに雪の舞う季節であった。当然皆一様に厚く肌を隠しているのだが、この袈裟が最も表面積の多い装いである南無さんには、果たして理解が及ばなかった。一体何が破廉恥かと、そればかり考えていると、南無さんはある共通点を見出した。道行く人間は、皆一様に、きらびやかな小袋を提げているではないか。

さてはあの中に、と思った南無さんは、ちょうどこちらから目を逸らしたと見える女性に早足で近づくと、その中身を改めた。

袋の中には包みがある。包みを開けると箱がある。ハハア、幾重にも物を包むことで、包皮を表現しているのだな、しかしそれもまどろこしいまねをする。すなおに包皮を広げれば良いだけのことだ。

そう思って最後に箱を開けると、中からは亀頭ではなく茶色い固形物が現れたではないか。これには南無さんも面食らってしまった。自分が今まで中を改めようと破り開いてきたものは包皮ではなくアナル皺だったのだ。

しかし、ようく目を凝らすと、その中に乳白色のものも混じっていた。いったい何かと手に取って検分していると、見る間にとろけてしまい、南無さんの腕を肘まで伝っていった。その感触に南無さんは覚えがあり、ふと、気づけば舌で舐めとってしまっていた。

なお断っておくが、食ザーは南無さんの趣味ではない。生活である。教養ある南無さんは公私を混同するを潔しとしないため、人前で食ザーをすることはない。家で静かに、粛々と精飲するのみである。しかも自炊だ。縁側に正座して股間のイグニッションにこうべを垂れるその姿は趣深く、周囲の風景と一体化する。首から背中にかけての流線型は宇宙の気を体現していると言って相違ない。徐々に高まっていくエントロピーが放出されると庭一面に花が咲き乱れるようである。それはさながら白い百合の花弁であり、南無さんはひとしずくずつ静かにそれを舐めとっていく。

かくして公衆の面前で己の日常を晒してしまった南無さん、いっとき羞恥を覚えて、はたと箱を取り落としたものの、今日がなんの日であるかを思い出した。何の事はない、破廉恥の日なのだ。

南無さんは安心して往来の人間の手を掴むと、己のふんどしに招き入れた。

中では一足早くホワイトデーだ。

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