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残像のゆくえ (1/2)

幼い頃、私は生き物の残した残滓が見えた。
たとえば、ふと宙を見上げると、鳥が飛んでいった跡が飛行機雲のように見えたり、切られてしまった大木の切り株の口を、名残惜しそうに取り巻いているのを目にした。よく動き回る犬などを見ていると、実像が掴みにくくなるほど、残滓がそこらじゅうに散って見えた。
人は、とりわけ濃い残滓を残す生き物だった。
人が去って間もない残滓は、ほとんど人のかたちを留めたまま残っていて、稀に顔まで判別できるほど鮮明に見えるものもあった。
彼らは滓と呼ぶにはあまりに不憫に思われ、私は彼らのことを残像と呼んだ。

故郷は、鉄道の通らない小さな村だった。
残像たちは、夕暮れのあぜ道や、ひとけのないバス停や、錆びて茶色くなった看板の前に、まちまちの濃さで残っていた。真新しいものはまるで本当にそこに実存しているかのように濃く、やがて時間が経つと、消えそうなほど小さく細くなった。
大抵、彼らは完全に消えるまで長い時間を要した。
風化し始めるのは早いが、芯のように細くなってからが長く、針金のような痩身が、いつまでも危なっかしく立っているのだった。
たとえば、隣のおばあさんが腰を曲げて庭に落ちた八朔を拾う残像は、気の毒なほど長くそのままの姿勢で形をとどめ、完全に消えるまで丸々3年もかかったこともあった。

子供の頃、一度だけ、父と間違えて残像に話しかけてしまったことがある。
その残像はかろうじて男の姿を留め、今にも潰れそうな駄菓子屋の前のベンチに、身動ぎもせず腰かけていた。
何も見えていない父は、残像と私の間に割り込むようにして座った。残像には慣れっこになっていた私も頓着せず、買ってもらったお菓子のカードに夢中になっていた。
記憶はおぼろげだが、多分、何か面白いことを思いついて父に聞かせてやろうとしたのだと思う。
カードから顔を上げて隣に話しかけたが、そこには父の姿はなく、曖昧な残像の横顔だけがあった。
私の心臓はどくんと竦んだ。
眼窩は落ちくぼんで暗く、顔全体が霞のようにブレて、表情は読めなかった。父はいつの間にか、少し離れたところに立っていて、私を遠くから見守りながら誰かと電話をしていた。
残像は、呆然と宙を見つめたまま、ただ座っているばかりだった。
幼かった私は、どうしていいか分からず、手に持っていたカードをそっと残像の隣に置き、弾かれたように父の元へ駆け寄った。父の服の裾を掴んで振り返ると、残像の視線はちょうど電話中の父に注がれていた。
本当に父を見ていたのか、ただ視線の先に偶然父がいただけなのかは分からない。ただ、彼の視線に気付かない父が恨めしく、私は泣きべそをかきながら父と残像とを交互に見比べ、しかし何をどう伝えたら良いか分からずに地団太を踏んだ。
残像は今にも霧散してしまいそうなほど儚く、隣に置かれたカードのほうが、存在感が強すぎてやけに野暮ったく見えた。

つづく



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