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「知人」と「友人」のはざまに

こうしたエッセイじみたものを書いていると、他者との会話や、そこで起こったできごとなどを引っ張ってくることが多い。
そうしたときに、その第三者を「知人」と記すか「友人」と記すか、たったそれだけのことで数分悩むことがある。

(この人は仕事つながりで交流があるだけだし、「友人」なんて書くのはおこがましいよなあ……。でも趣味の話題でかなり盛り上がることもあるし、ここは勇気を出して「友人」って書いちゃってもいいんじゃないかな?)

(こっちの人はめちゃくちゃ仲がいい友だちの友だちなんだよな。3人で会ったこともあるし、共通の話題で意気投合したけど、でも「友人」カテゴリーに登録していいのは直接の友だちまでなのかもしれないよなぁ)

……などと、超絶どうでもいい思考をぐるぐると繰り広げる。
しかもたいていの「友人」も「知人」にも、こうして執筆をしているnoteの存在を知らせていないわけだから、当人の目に触れることなんかないのだ。要は書いたもん勝ち。であるが、やっぱり「友人」と書き表すのがおこがましい気がしてしまうと、びびって「知人」と記すのにとどめてしまう。
だからわたしの書く文章には「友人」と「知人」というよくわからん表記の棲み分けが混在しているのだ。

ところが世の中の人の数だけ、そうした尺度の基準も異なってくるのだと思う。
本当の親友以外は迷いなく全て「知人」と記すタイプの人もいれば、
交流のある知り合い全員を「友人」と書き記すタイプの人もいることだろう。
特に後者の価値基準をもった人にあこがれているのだが、ふとそんな人に巡り合ったことがあるのを思い出した。


私が以前つとめていた職場で、急きょ体調が悪くて休むことになった同僚がいた。欠勤連絡をした彼は電話口で、上長から「今日の○○の件はどうなってるの?」と問われたのだった。
どうやらそこで彼は、「あの。ともだちにぜんぶお願いしてるんで大丈夫です!」と上長に答えた。
「え?ともだち?代わりにきみのともだちが職場に来るってこと?」
と、とまどう上長。周りで様子をうかがう我々は、ちらちらと目を交わし合った。業務のことなら我々も把握してるから、わざわざ第三者を寄越すこともないのに。おもわず首をひねった。

「なるほどね。きみはおもしろいな!」
そう言った上長は、彼の体調を気遣う旨を告げてやがて電話を切った。
それから我々にこう呼びかけた。
「まかせたよ。彼はきみたち、ともだちに、ぜんぶお願いしてるらしいからね!」

頬がゆるみ、笑いがもれてしまった。彼は同僚全員のことを「ともだち」と称したのだ。周りを見渡せば、同僚たちもみな和やかに笑みをこぼしていた。
「じゃあやつの分もうごいてやるか。俺らともだちだし?」
「ですね。私たちともだちですから?」
そう言ってにやつきながら、その日の業務分担について打ち合わせを始めていた。後日彼が復活したとき、「おっ!心配してたぞ!ともだち〜!」といじられまくっていたことを未だに覚えている。


ゆるい尺度でものごとを捉えることができれば、肩の力がぬけ、ふわりと頬もゆるんでくる。悩むことなく「ともだち」だとか、「友人」などと称することができたなら、どんなに楽だろうか。

私は今日も文章のようなものを書きながら、さてこの人は「知人」か「友人」かと、ぐぬうとうめきながら、不要な思考をめぐらせている。

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