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甲子園だけ悪人にするのはもうやめないか?

甲子園を批判する、というものが活発になったのはいつであろうか。

少なくとも大きな影響を与えたのは沖縄水産の大野倫投手の反対に曲がった右腕、辺りからであろうし、それ以前からもちょくちょく批判はされていた気がする。

日本という国において野球の発展が新聞社の発展にも兼ね合う事情から、新聞社のイデオロギーとそれに伴う収益を求めて高校球児と甲子園は論点になりやすかったが、少なくとも大野投手登場以降、甲子園という舞台は高校球児の拷問ショーと呼ばれるような雰囲気が生まれてきた。

野球というスポーツの性質上、どうしても投手が目立ち、かつ酷使されやすいのは今もう言われることでもなく、それを踏まえた上で強豪校を中心に投手複数体制を作るチームが90年代以上に現れてきたことは今さら言うまでもない。

今ほどではなくとも90~00年代のプロ野球においてエースになった投手が高校時代は二番手どころか三番手、補欠だった、なんて事も珍しくなく、そこの延長上に今日の高校野球があるといっても過言ではない。

そういった高校野球の進化の中、未だに甲子園を批判する文章が飛び回っている。

現在のスポーツ倫理に甲子園の戦い方は似つかわしくない。制度を改めていかなければならない。

この論を多くみる。私もこれに対しては同意である。一人の投手や選手が酷使に近い状況で戦い、怪我との不安に脅かされながら大会を迎え、終えていく姿を積極的に推していくつもりもない。今更「泣くな別所。センバツの花だ」ではあるまいし。

怪我してまで投げる事を美しいとは言わないし「甲子園が野球の全て」という盲従にも似た意見はこのグローバライゼーションされたこの世の中であまりにも古すぎる考え方と思う。

とはいえ、その批判にも限界があると私は考えるのだ。

1.「大きなお世話」な「甲子園病」

「壊れてもいい」甲子園投手にどう反論できるか | 日本野球の今そこにある危機 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

この記事を読んだのだが、正直に言って「余計なお世話」である。

少なくとも甲子園の野球大会は武道的な精神性を重視し、球児の身体はどうでもいい、という<制度>に向けて批判するものであったし、少なくとも私はそう考える。

特に別所毅彦だけでなく、太田幸司、江川卓、定岡正二といった選手のアイドル化は1970年代には始まっていたわけで、その投げる姿を観たいために一スポーツ大会がここまで発展してきたのである。現在の甲子園を語るためにはテレビやそれによるアイドル化という話は避けて通れない。

突き詰めてしまえば半世紀前から一人の、18歳の選手がマウンドという檜舞台で刮目される場所としてあった事は今更語ることでもないのだ。

いわば高校球児、いや「野球を何年もやり続けた選手」に於いて甲子園のマウンドは「18まであったすべての事を総括する晴れの舞台」なのである。

数あるプロ野球の書籍でも甲子園の土を踏まずにプロ野球選手として甲子園のマウンドに立つと気持ちが沸き立つ、と言われるのは真偽を定かにせずとあっても、日本に於いての「甲子園のマウンド」の実態をよく表しているのではないか。

それは別に野球という枠を外しても構わない。サッカーでいえば国立競技場。ラグビーは花園。吹奏楽なら普門館…。

こういう青春の包括として「甲子園のマウンド」はあるのではないか?

だとしたら「甲子園病」なぞ本当に余計なお世話なのである。

腕が折れてもいい。どうせ高校を終えたら大学で勉強もそこそこにバイトと遊びに尽くして、一社会人として終わればいい。だからこそ、甲子園だけは真っ直ぐみておきたい。そして怪我とかは嫌だけど、もし甲子園のマウンドで果てるならそれも本望。

このように考える高校球児は少なくないのではなかろうか。これを「甲子園病」というのはいい表現で、高校球児は必ずかかり、ほとんど治せる可能性のない18歳までの不治の病みたいなものだから、制度を規制していくべき、言い換えたら

大人がストップをかけていくべきだ

という話ではなかったのか。

2.誰も提示しない「甲子園から先」

甲子園以降にも野球がある、なんて個人の人生に関していってしまえば余計なお世話も甚だしい。

ならば例えばそういった高校球児達になにか違う道を今まで提示してきたのか、という話である。

二回の甲子園と国体、神宮大会の四大会以外の全国大会、トーナメント式とは違ったリーグ式の試合方法、強豪校では必ずといっていいほど問題になる一試合も経験しないまま野球をやめていく補欠問題へのアプローチを、なにかしら一つでもやってきたのか、という話である。

甲子園一つにしても私が常々提唱する「補強選手制度」や「ベンチ入り選手枠増大」などを提唱してきたのか、と言いたくなる。

甲子園以降の大学野球はさらに狭き門になっていく。エリートと一部の努力した選手がキャリアを積み立てる大学野球、金を貰いながら会社のために勝利を目指す社会人野球、なにがなんでもプロへ、という気持ちをもって蕀の道を目指す独立リーグ。

これ以外を今までどれだけの人間が提示してきたのか、という話なのである。確かにエリートの道を取材するのは金になる。しかし、金にならない、趣味と本気のギリギリで生きる世界に日本の機構やジャーナリストがどれだけスポットライトを浴びせてきたのか、という話なのである。

例えば今日で言えば旧神戸グリーンスタジアムで全日本社会人野球選手権があっているが、世間がどれだけ知っているというのか。エリートのエリート達でさえこれだけスポットライトが浴びられないのだ。

そんな甲子園とプロ野球、所々でMLB、といった広報活動で、甲子園を終えた高校球児にどんな道を提示しろというのか。

そんな状態で、甲子園以後の選手の事も考えろ、なんて、私から言わせたら「じゃあその甲子園が終わった選手らに道を出してやれよ。出せないくせに偉そうにいうなよ」くらいは言いたくなる。

大学野球だって東京六大学野球の裏に隠れているが、様々な選手が凌ぎを削っている、東京六大学理工系硬式野球連盟があり、プロを目指す以外の大学野球があるを提示することが出来れば、東都準硬式野球連盟でまた東都野球連盟とは違うしのぎを削ってプレーしている選手だっている。

全国に減りつつあるクラブチームも高卒で「プロは無理でも野球を頑張ってみたい」という選手を受け入れたいところは山ほどあるはずだ。それこそ今日クラブチームの全足利クラブが関西の名門社会人チームの日本生命野球部といい勝負をしてきたばかりだ。

錦糸公園ものまねプロ野球のように、野球の模写が得意で見た目もそれっぽいから、と少し砕けながらも才能をゴリゴリぶつけ合う野球とは違った野球を提示してあげてもいい。才能を極限までとがらせてやるだけが野球の真の姿ではないはずだ。

東京ヴェルディ・バンバータ佐川急便女子野球部のように男子のみならず女子の野球選手にすら社会人野球の扉が開かれている軟式野球もある。高校野球が終わった後だってゴリゴリしのぎを削れる世界は山ほどある。

そういうところにスポットを向けて、道を指し示すことが出来るはずなのに「甲子園だけ目指すのはよくない」なんて無責任もいいところである。

3.甲子園を悪人にする前に「なせることをなす」時代だ

確かに甲子園は制度として未だに古い慣習にとらわれていることは否定しない。

しかし、もうその警鐘が鳴って何十年経っただろうか。

その警鐘を鳴らしている立場ならなにをやってもいいわけでもあるまい。

警鐘を鳴らしているだけの人はいつかその慌てふためく一般人が面白い、とオオカミ少年となっていくだろう。

もう我々大人が、何かしらの道筋を指し示す番ではないのか。甲子園を悪者にする前に、やれることがあるはずだ。

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