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「あはれ」は一体感、「をかし」は分離感ーー古語妄言

「もののあはれ」(「あはれ」)を顕著に示したのが『源氏物語』、「をかし」の理念に基づいて記されたのが『枕草子』だとよく対比される。このふたつの違いを明示するとすれば、どのような説明が考えられるだろうか。ひとつの提案として前者を「一体感の美意識」、後者を「分離感の美意識」と考えてみてはどうだろう。以下、『枕草子』をテキストに考えたい。(「あはれ」を「しみじみとした趣のある様子」、「をかし」を「対象を興ありとする感情」と説明するだけでは、どうもわかりにくい。)

まず「あはれ」から。人間は必ず母親から生まれ落ち、母子一体感を支えに育つ。この「一体感」への懐かしみが「あはれ」ではないか。母子一体感を求める自分自身の心を対象に重ね合わせたときに、「あはれ」と感じるのであろう。『枕草子』を検討する限り、「あはれ」の表現が用いられているのは例えば「ねぐらへ帰ろうとする烏」「仲間を恋しがる子供っぽい山鳥」「父を慕って呼ぶミノムシ」「女が独りで住む荒れた家」「十一月の落ち葉」など、この説明に当てはまるものが多い。「かわいそう」という語義で用いる場合も同じで、その対象が自分とオーバーラップして感じられるために母親が恋しくなると考えられる。

これに対して「をかし」は、対象との距離を感じさせる。これは「対象との距離感」であり、すなわち「対象との分離感」である。清少納言は男社会に馴染んでいると考えるべきか、馴染めた性格というべきか、とにかくサバサバとしている。言いたいことをズバリと書き記すのが『枕草子』の面白さだと思うが、要するに客観的なのだ。対象を客観視したうえであけすけなく表現した美の理念こそが「をかし」であろう。対象となるのは枚挙にいとまがないが、「ほのかに光る蛍」「列をなして渡る雁」「水の上をスイスイ歩く蟻」「夏の扇を忘れて昼寝すること」「夕顔という花の名前自体」「桜の花盛りに寺籠りすること」などである。「あはれ」のときのような湿り気が、感じられないように思う。

日本文化が「甘え」を良しとすることは、土居健郎『注釈 甘えの構造』(弘文堂、1993年)で指摘されている。同書によれば「甘え」とは、「乳を恋うことに示される憧憬」(pp.85)であり、「乳児の精神がある程度発達して、母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に、その母親を求めることを指していう言葉」(pp.87)である。筆者はこの「甘え」イコール「母性希求」そのものが、「あはれ」に通じるであろうと思う。つまり「もののあはれ」は母性希求的、かつ母性的な感情だと言えるだろう。一体感を夢見るとき、そこには子供側と母親側という区別すら無いからだ。

そして「をかし」は(「あはれ」と大別するならば)、「父性的」な感情だと説明できるだろう。自分と対象とを切り離して区別し、客観的に見る美的理念だからである。母性とは自分と対象とを「包含する」機能であり、父性とは自分と対象とを「切断する」機能に他ならない(この点を指摘する文献として、河合隼雄『母性社会日本の病理』(中公叢書、1976年)がある)。これらは心理的機能であり優劣はないが、念頭に置くと『枕草子』の文学的意義もわかりやすい。平安時代は「言葉」で対象を「切る」という父性の機能を、女性が大きく担い始めた時代だったのだ。

以上をもう一度まとめよう。「もののあはれ」は自分と対象とを渾然一体として考える母性的心理が起こす「一体感の美意識」であり、「をかし」は自分と対象とをある程度明確に切り離す父性的心理が起こす「分離感の美意識」である。これは素人が説く妄言であるが、あなたはどのように受け止められるだろうか。

(妄言追記)
「あはれ」の意識が西行法師などにおいて「無常」と結びつくのは、母子一体が必然的に永続しないからではないだろうか。常に母子一体であり続けるというのは、人間には不可能なのである。西行は「都にいた折に月に『あはれ』を感じていたのは暇つぶしでしかなかった」旨の歌を詠んでいるが(Wikipedia「もののあはれ」より)、これは母子希求の一種の未熟さを乗り越えたということかもしれない。また「をかし」の語源であるが、対象と距離を取って「傍らにいる感覚」(当事者的ではなく、どこか第三者的)ということから、「傍(おか)し」の派生であるとは考えられないものであろうか。「あはれ」の語源も「ああ、吾れ」ないし「ああ、われ」、もしくはそれら両方のように思える。

私の拙い記事をご覧いただき、心より感謝申し上げます。コメントなどもいただけますと幸いです。これからも、さまざまな内容をアウトプットしてゆく所存です。どうぞよろしくお願いいたします。