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映画『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』を鑑賞して

はじめに


アフリカ系アメリカ人ソウル歌手、ジェームス・ブラウンの伝記映画である、『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』を鑑賞した。少々辛かったが、実に見応えがあった。

「辛かった」というのは、考えさせられたからである。ジェームス・ブラウン(以下、JBとする)の生い立ち、そして性格に筆者自身(とその家族)を思わせる描写が随所にあったからだ。筆者は専門家ではないものの、心理学や精神医学を学んでいる。必然的に本作も、そういう観点から眺めていた。そしてJBと境遇がどこか似ているからこそ、内側からの共感と外側からの理論的な理解が一致したのである。

彼は偉大だが哀しい人(筆者と類似しているのはもちろんその後者だ)である。筆者は音楽に詳しい人間ではない。だが自分自身と照らし合わせることで何となく、その哀しさの本質に迫れたような気がしたのだ。映画の出来栄えが良かったからではあるが、そういう哀しみを持った人間はどうすればよいだろうかと考えずにはいられない。

JBの行動特性一覧

JBの行動で、特徴的なものを列挙してみよう。映画を観ながら取ったメモに基づいたものだが、映画だからこそ特徴を強調して描かれていると考えるべきである。

・挑戦的態度を持つ
・ワンマンでルールにこだわる
・「罰金」という口癖
・暴力
・性的に奔放にふるまう
・自己認識の歪み
・能力主義的言動(「努力すれば……」)
・父親にされたことを繰り返す
・契約不履行や脱税など
・白黒思考の人間関係
・否定されると激怒する
・人間不信
・傲慢
・数字(金や順位)への信頼
・共感性の欠如
・ハードワーカーと呼ばれる
・ショービジネスの才能発揮

JBの「本音」を分析する

行動特性一覧だけを読むと、JBが単なる悪人だと思えるだろう。だが筆者には、彼の歌がいわばこの人格的欠如の反動であるかのように感じられた。こういう行動を取ってしまう理由は、実は哀しいからだ。もちろん迷惑を被る周囲への言い訳にはならないが、クライマックスで彼はこう歌っている。

「俺のハートを救ってくれ お前が必要」と。

この歌詞こそ彼の本音であり、魂の叫びではなかったか。映画製作陣も意図的にこの歌を一番の見せ場に持ってきた可能性がある。

JBのパーソナリティと生い立ちについて

JBの哀しみは、その生い立ちにあると考えられる。幼少期に両親とどう過ごすかは、その本人の一生に決定的な影響を与えるからだ。筆者は医師でもなければ彼に会ったこともないので憶測だが、列挙した行動特性から彼は自己愛性パーソナリティ障害の可能性がある。またトラウマを持つ人は、努力に対して依存症になる。彼がハードワーカーと呼ばれたことと関係しているのではないかと思う。

自己愛性パーソナリティ障害については説明が必要であろう。ナルシシズムは「自己愛」と訳されて大変にややこしいが、「(健全に)自分が好きなこと」ではない。むしろ正反対である。つまり「自分が好きになれないため、無意識に自分の持つ物や属性(地位、才能、肩書きなど)に執着する傾向」と考えたほうが分かりやすい。その執着の様子があたかも、「自分大好き」のように映るということではないだろうか。そして彼が自分を愛せなかったのはひとえに、両親からの愛情を受けていなかったからだと考えられる。父親は暴力をふるうし、母は離婚して家を去らねばならなかったのだ。

自己愛性パーソナリティを持つ人の振る舞い

自己愛性パーソナリティを持つ人は、一般に共感性を持たない。これは確かに批判されるべき点だが、たとえば JB と同様の家庭に育ちながら健全な共感性を持てる人がどれだけいるか疑問である。つまり愛情ある家庭で育ち共感性を得た人が、 JB の共感性の無さをそのまま批判してよいだろうか。その批判は JB に対して非共感的ではないだろうか。これは、甘く接して子供扱いせよと言いたいのではない。実際彼は何度も収監されてしまうが、おそらく JB 自身が最も共感されたかった「愛情を受けずに育った辛さ」への共感がなされていれば、彼は悪事を働かずに済んだ可能性も十分にあったと思うのである。筆者自身のこととしても他者のこととしても、書いていて耳が痛いような気持ちだ。

いわゆる「俺ルール」や「罰金」という口癖、そして数字への執着も意味があろう。共感性に欠けた人間がルールや数字にこだわるのは重要な意味を持つ。親の愛情を受けなかった場合、人は往々にして暗黙のルールがわからなくなる。これは本当にわからないのであって、テレビで言えばアンテナが欠けているようなものだ。ところが文章で書かれたルールや数字は、基本的に嘘をつかない(人間のほうが数字に騙されることはあるけれども)。要するに愛情不足などで共感性が欠けた人には、そうしたテキストは唯一の手がかりなのだ。生きるため、他の人たちと関わるための苦肉の策なのである。「罰金20ドル」などという口癖も、ルールに反した度合いを数値化しようとする心理だろう。

そうしたルールのひとつである法律を、彼はたびたび破ってしまう。同情の余地はないかもしれないが、これも理不尽な境遇への怒りの表れだと考えられる。乳幼児にとって親や家庭は世界そのものなので、そこで理不尽を強く経験すると世界そのものが理不尽に作られているように感じるものなのだ。その世界で「俺ルール」を作ってある程度社会的に成功してしまうと、理不尽な世界を取り締まっている法律よりも「俺のルールで考えたほうが正しい」となるのであろう。いまの日本の経営者にもこういう人物がいるのではないだろうか。

JB はなぜ売れたか

では彼は、なぜあれだけヒットをとばしたのだろう。前述の通り、彼が彼の本音を歌に乗せられたからではないかと推察する。つまり「俺のハートを救ってくれ」である。かれはアフリカ系アメリカ人として白人と複雑な関係にあったが、彼が本格的に活躍した1960年代から1990年代にかけて、同じ思いを持つ人が多かったのではないか。冒頭近くではベトナム戦争の描写が、後半ではキング牧師暗殺事件が起きたときの描写があった。日本も高度経済成長期からバブル期、バブル経済の終焉へと向かっており、やはり心を病む人が急増していた時期だ。世界的に物が豊かになったことが、逆説的に心の貧困を生み出したという説がある。JB は貧しい家庭に生まれたが、豊かな白人に敵意を持ったであろうーー映画の意図的演出だと思われるが、音楽の素養もない白人プロデューサーたちの横柄な態度が滑稽に描かれていて吹き出してしまった。だがそうした傲慢さは JB のものとは少し違うのであろう。地位や名声、金や異性ならば JB も手にするが、生家での十分な愛情は少なくとも彼にはなかったからだ。自己愛性パーソナリティの人間は、そもそも愛情を理解できない。だからこそ地位や金に執着することしか知らないのである。でも彼が「俺のハートを救ってくれ」などと歌い、手応えもあったとき、彼は無意識に自分の本音を重ねた可能性がある。自分の気持ちを乗せられたのだ。そうでなければ、あれだけの人々が聴くのは不自然ではないだろうか。

「聖母マリア」の象徴するもの

アメリカは基本的にプロテスタントの国であり、大統領もキング牧師に協力したケネディ以外はみんなプロテスタントである。カトリックと異なり、プロテスタントではあまり崇拝されない聖母マリアの名が本作にはたびたび登場する。映画の趣旨から考えても、これはキーポイントではないか。聖母マリアは要するに、「良い母性」の象徴だと考えられる。(反対に「悪い母性」を象徴するのは西洋では魔女、日本では山姥などだ)。聖母マリアへの呼びかけは、現代において「良い母性」が失われていることを示してはいないだろうか。そしてこのことは JB の「俺のハートを救ってくれ」などというメッセージと通じるものがあると思う。

最後に

自己愛性パーソナリティの人は自分の才能にも執着するが、実際に才能があった場合にも苦境に陥りうる。なまじ成功できてしまうために、「自分は愛情を知らない・愛情がわからない」という自覚をより持てなくなるのだ。JB はその点、どうだっただろうか。彼が何らかの心理治療を受けていなければ、本当にそうした自覚を持てなかった可能性は高い。ただ彼のミュージシャンとしての芸術的な才能は、彼の内面の情動を良いかたちで表面化できたとも思える。映画を観る限り、彼のパフォーマンスには力強い感情が込められている。才能が芸術という、内面を表現する分野で最も開花したこと。これが彼にとっては一番の救いだったのではないだろうか。中身の濃い、見ごたえある映画だった。


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