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読み解き『ジョジョの奇妙な冒険』

◯前置き


その昔、荒木飛呂彦による漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』(以下、『ジョジョ』と略記)の深層心理について自分なりに考察した論文を大学に提出して、学士号をいただいたことがある。拙い論文であったし、現在でも自信があるわけではないが、当時以降の見解を少しばかり書こうと思う。本稿における考察の対象としては原作全9部のうち、第1部、第3部、第6部のそれぞれごく一部となる。また筆者は現在連載中の第9部は未読である。本稿は以下、『ジョジョ』第6部までのネタバレを含むのでご留意いただきたい。

◯ディオやゾンビの意味するもの

筆者が一つの仮説としたいのは、ディオ(DIO)が「悪しき母性」の象徴ではないかというものである。彼が登場する第1部と第3部を検討せねばならないが、まず第1部で彼は吸血を介して他者を「操って」いる。そして第3部において彼は当初「肉の芽」、さらに「金の力」、最終的に「カリスマ」で部下を「操って」おり、主人公側のジョースター一行をも再三誘惑する。第1部において彼に吸血された者は、ゾンビとなって第三者を襲うが、いわばディオの操り人形である。原作者の荒木氏による『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』(集英社新書・2011)から抜粋しておく。「ゾンビの本質とは全員が平等で、群れて、しかも自由であること」(同書、帯より)。ところで、平等で群れている操り人形は、自由だろうか。あたかも自由なように見えるだけではないか。実際、『ジョジョ』におけるゾンビの描写はおぞましく、悪しきものといった印象を受ける。『ジョジョ』のテーマは「人間讃歌」と呼ばれているが、人間の素晴らしさは「知り」「怖さを乗り越える」ことのようである。「悪しき母性」という概念を持ち出したのは理由があってのことだ。河合隼雄『母性社会 日本の病理』(中公叢書・1976)には「わが国の文化の背景に『永遠の少年』の元型が強力に働いている」(pp.23)とある。ここで「元型」というのは心理学者ユングが提唱した無意識における「ひな型」のようなものであり、「永遠の少年」とは元型のひとつで大雑把に言えばピーターパンのように、自我を確立して大人になれない存在を指す。河合は永遠の少年について、あくまで「西洋的観点に立った」(否定的な)呼び方だとしている(pp.30)が、『ジョジョ』においてはある意味「人間であること=ゾンビではないこと=群れないこと」が謳われているように思われる。つまり現代社会において主体性を奪われ、思い通りに動かされてしまっている人たちを生ける屍・ゾンビになぞらえて批判、逆に主体性を堅持してわが道を行く勇気を礼賛しているのではないか。そして人々をゾンビにしてしまう魔物こそがディオであり、心理学的に読み解けば「悪しき母性」とも呼べるというのが筆者の解釈である。以降においても、このあたりについて傍証となることを述べようと思う。

◯時間停止のメタファー

結論から言えば、「時間停止」とは死や反生命のメタファーだと思われる。『ジョジョ』第3部ではDIO(となったディオ)がこの能力で主人公たちを襲う。時間停止のかたちをとった表現としては日本神話の常世(とこよ)の国、「浦島太郎」における竜宮、『ピーターパン』のネバーランドなどが挙げられる。またゲーテの『ファウスト』では、「時よ止まれ、お前は美しい」という台詞とともに死が訪れる。いずれも時が止まった世界であるため、住人は歳をとらず成長もしない。時間停止のメタファーはしたがって、前述の「永遠の少年」元型、また無意識の流動性が滞る状態にも通じる。心の停止はいわゆる「思考停止」に等しく、死に近いのかもしれない。なぜならば、生きていても可能性の発展が見られないからである。そう考えればDIOが、なぜ時間停止能力で襲ってくるのか了解できる。あれは思考停止の呼びかけであると同時に死の世界への誘いであり、「生きていても無駄だ」という恐ろしい生命否定なのだ。彼が「無駄」を強調するのは、そう考えればお遊びではないのである。花京院がDIOに操られた状態のときのみ、「操り人形」を手にしていたこともうなずける。主人公である承太郎に洗脳を解かれてからは屈服した自分を恥じて捲土重来を期するが、花京院の持つ回想は複雑性PTSDのフラッシュバック症状を思わせる(スピンオフである『ジョジョの奇妙な冒険 クレイジー・ダイヤモンドの悪霊的失恋』にも同様のものが頻出)。考えてみれば、フラッシュバック症状も「時間の病」だと言えよう。

◯空条ホリィについて

空条ホリィは第3部における主人公、空条承太郎の母親である。なお空条家において父親の描写が一切なく、名前だけであることにも意味があるだろう。少なくとも第1部から第8部まで、主人公の両親が健在であることがほとんどない。ただこれは社会における父性と母性のバランスに左右される、心理的なものだと考えるべきである。アンバランスであった場合はその程度に応じ、成員が生きやすくなるような工夫を各自がせねばならないが、『ジョジョ』も読者に向けた何らかのメッセージではないか。それはそうと、ホリィは作中でも肯定的に描写されている。あまり知的な印象は受けないが、承太郎との関係も良好だ。実際、承太郎はホリィの命を救うためにエジプトへ向かう。前述の通りDIOを「悪しき母性」だと仮定すると、ここに「良き母性」であるホリィとの対比が成立する。悪しき母性を倒すことにより、良き母性を救う物語が第3部だと考えれば辻褄が合う(出発点と目標地点が繋がり、円環構造のように感じるのは黒澤明の映画『夢』の短編「日照り雨」に通じるものがある)。そのほかエンヤ婆のスタンドやミドラーのスタンドなどは形状が「太母(グレート・マザー)」的であるし、ヴァニラ・アイスのスタンドはウロボロス(原初の混沌)を思わせる。こういった要素も、どこか人間心理における母性との関わりの深さを感じさせると言っても過言ではない。

◯承太郎の職業と「ストーンオーシャン」


第3部においてDIOを倒したのち、承太郎は海洋学者となる。筆者はこのことの心理学的な意味について考えあぐねていたが、「海洋」が無意識のメタファーであることを鑑みれば、彼は「無意識の探求家」なのではないか。また第6部の「ストーン・オーシャン(石造りの海)」も「生命力を失った無意識」と解するならば、第6部主人公である徐倫の「石の海から自由になる」という台詞も分かりやすい。つまり彼女は、無意識に生命力を取り戻したいのだ。彼女のスタンド「ストーン・フリー」はそのまま読めば「石が無い」こと、つまり無意識という心の大部分に流動性がもたらされた状態を意味するのであろう。第3部でDIOは「金も地位も安心のため」と語っており、プッチもこの「哲学」を踏襲。これは要するに不安なのであり、だからこそ先回りして全てのことが予想できる世界を「天国」と表現しているのではないか(ちなみに第6部ラストの展開については、ある本を参考にして多少読み解けそうである。ただしまだできていない)。

◯終わりに

書きたい内容の6~7割は書いたであろうか。残りは吉良について、ジョルノについて、ディアボロについてである。簡単に書けば吉良は「教育虐待を受けていた」という裏設定があること、ジョルノは善の要素と悪の要素を理想的な比率で体現していること、ディアボロもまた解離性同一性障害であることなどである。第7部以降もじっくり検討したいが、とりあえず第9部『The JOJO Lands』のコミックス第一巻を楽しむことにしたい。

私の拙い記事をご覧いただき、心より感謝申し上げます。コメントなどもいただけますと幸いです。これからも、さまざまな内容をアウトプットしてゆく所存です。どうぞよろしくお願いいたします。