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まとわりつく。

インスタントコーヒーを掻き混ぜたように夜が朝に交わり溶けきろうとしたころ、僕はせいぜい人がひとり収容できるほどの窮屈な部屋に閉じこめられていた。薄らと明かりは灯っているようだが、手もとはよく見えない。どんな体勢をしていたかうまく思い出せないが、頭を抱えるようにして蹲っていたとすれば辻褄が合う。

頭上で鳴っている音はかろうじて聴こえる。耳もとではなにかが囁きつづけている。いや、囁きというには喧しい。けれど、音の像はぼやけていた。なにかが僕にくりかえし命令をしている。決して身体には触れられていたわけではなかったのに、足の爪先まで硬直していた。自分の意思に反する内容だが、拒否するという選択肢ははじめからなかった。

嫌な夢を見たのか。気づいた頃には、取り返しのつかない事態になっていた。失いたくなかったものを手放してしまったのだ。それは混じりけのない優しさや、疑いようのない誠実さがあり、そしてなにより妖しかった。その存在のおかげで僕の脆さや拙さは救済されていた。他では代わりが効くはずがなかった。物体だったのだろうか、それとも概念? わかるのは、僕が人間として健全に生活していくための言葉、振る舞い、誇り、尊厳、すべて失ってしまったという紛れもない実感ばかりだった。

間もなくして自分のした愚行を咎めるように、不安が押し寄せる。そのわりに清々しかった。間違いなく自分の決断は倫理から外れていたが、目の前に迫っていた恐怖から逃れられたことを思えば、たいした問題にはならなかった。

耳もとの囁きは変わらず鳴りつづけているようであったが、まるで聴こえ方が違った。あたりに立ちこめていた淀んだ空気が全身の毛穴から脳にそのまますり抜けて浄化されたように、晴れやかな気分。刑期を終えて出所をしたというよりかは、刑期半ばで脱獄したような達成感。当然罪悪感こそあるものの、束の間の多幸感に酔いしれて、頬がホロりと緩んでいたことがはっきりと記憶に焼きついている。僕の目に映っていたのは、醜く穢れた憎悪と執着の塊だった。

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