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誰の目にも触れないで、どこの輪にも混ざれないでいて、いつも「外部」の人物として生きている

辺りは一面どこかの広大な校庭のようで、私の周りには3つのグループがいた。楽器を弾きながら音楽の話をするグループ、淡々と絵を描くグループ、スポーツに励むグループ。それぞれがそれぞれのグループで楽しんでおり、特有の文脈を持っていて、和気あいあいとしている。私はその様子を、暫しの間眺めているところだった。

スポーツのグループを覗いて2つのグループには知り合いがいたので、話しかけにいくことにした。まずは「楽器を弾きながら音楽の話をするグループ」。後ろから声をかけると驚かれた。今まで盛り上がっていたところに割って入ってしまったようで、なんとなく気まずい。音楽は私も好きなので話せることは思い浮かんだが、深くは開陳できず、3人対1人(私)という構図で歩いていた。ここにいるのも居心地が悪いので、別のグループのもとへ顔を出すことにした。

つぎは「淡々と絵を描くグループ」。ここでは好きな家具を模写しているグループで、私には馴染みがないことだから、見様見真似でペンを握ることにした。するとグループの人が「俺あっちいってくる」と言って別のグループの方へ行ったので、私はひとりになった。仕方がないのでそのまま絵を描いていたけど、寂しくなって他のグループのところに行こうかなと思った。

以上は昨夜みた夢の話の一部だが、思い返してみれば私はいつもどこの輪にも混ざれず、過ごしていた気がする。たしかに、学校や塾、部活、サークル、インターネットのコミュニティ、会社等いくつかのコミュニティに属してみたことはあったものの、どこにいても若干しっくりこなかった。浮いていたこともあったと思うけど、私より浮いているやつがいるコミュニティだって沢山あって、浮いている人をいじる側(内部)として振る舞うことも少なくなかった。内部の人間として肩書を持ち、権威を発揮することさえあった。

だけど、どこにいても何だか「外部」にいるような気がしていた。どこのコミュニティに居ても、そこにいる皆は結局本当は他の誰かと仲良くしていて、同じコミュニティだから義務として瞬間的に関わってくれているような、居心地の悪さを感じていた。恋人だってそうだ。たった二人の関係でさえ、いつか分解される予定のものであり、その刹那性にどうしようもない居場所の無さを感じ、自分は誰の目にも触れないのだという諦観をおぼえる。

どうすればこの感覚が拭い去れるのかわからないけども、私のようにいつも「外部」にいる人間と出会ったときは、「やっぱり、そうだよね」と確認しあうことができるかもしれない。

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