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スポーツと情熱

この記事では「スポーツと情熱の関わり」「行き過ぎた情熱を抑えること」「より良い未来のスポーツ環境をつくること」について、考えるところを記しました。


人を説得するために必要な3要素

古代の哲学者・アリストテレスによる著書「弁論術」では、「人を説得するために必要な3つの要素」として、ロゴス・エトス・パトスというものが示されているそうです。

• ロゴス=論理(Logic)
• エトス=倫理(Ethic)
• パトス=情熱(Passion)

これらは「人の心を動かす3つの要素」とも言い換えることができるでしょう。

そして、人が生涯にわたり豊かな人生を送る上では、これらのロゴス・エトス・パトスを、バランス良く身につけることが大切であると思います。

陸上競技を含む各種スポーツ活動が「教育の手段」として用いられるのは、体を鍛えることができるのはもちろんのこと、スポーツを通じて「パトス=情熱」を学ばせることができることと、関わりが深いものと考えます。

国語や数学などいわゆる座学では、ロゴス=論理を学ぶことができます。道徳の授業や学校の集団生活では、エトス=倫理を学ぶことができます。しかし、それらの教科や生活体験だけで、パトス=情熱を学ぶことは、なかなかに困難です。

パトス=情熱を経験したり学んだりするためには、スポーツを教育の手段として活用することが大変効果的です。特に日本の中学・高校では、独特の「部活動」という仕組みで、学校教育の一環として多くの生徒がスポーツに親しみ、取り組む体制が構築され、現在まで続いています。

子どものスポーツと情熱

成長期の子どもにおいては身体の諸器官が発達する中で、スポーツ活動を通じて体力や技能が飛躍的に向上します。様々な困難や葛藤などを乗り越え、社会性や暗黙知などを身につけます。スポーツによって、子どもは心と体を著しく成長させます。

多くの親が、子どもにスポーツをさせたいと考えます。その理由は多くの場合「将来スポーツ選手に育てたい」ためではなく、「健康づくり・体力向上」「精神面の成長」を期待してのことです。そして、座学では身につけにく、子どものうちに体験させて学ばせたいことを、スポーツを通じて身につけさせたいと願います。その要素のひとつが、まさに「情熱」であるといえます。

子どもは、スポーツを楽しみます。小さい頃は体を動かすだけでも楽しんで活動します。勝敗が関わるようになると「勝ち」を通じて喜びを覚え、「負け」を通じて学びを得るようになります。そうした積み重ねが、その子どものパトス=情熱をより深く、熱いものに変えさせていきます。

情熱の暴走

一方で、情熱は暴走しがちです。本来は、論理と倫理をもってコントロールするべきところを、情熱が暴走して抑えが効かなくなり、不適切な判断や行動をしてしまう場合があります。単純な例として、不当なしごきや暴力、ルールの不正、ドーピングなどが挙げられます。

また、子どものスポーツ活動では、大人が子どもにパトス=情熱を注ぐにつれ、いつの間にか大人が主体になってしまい、大人自身が「勝ちたい」気持ちを抑えることができず、過度/不適切な活動が展開されることが少なくありません。

行き過ぎた情熱やその歪みが、体罰を含む暴力、性的ハラスメント、金銭の不正な取扱いなどにつながる事例も、実態として数多く存在します。(そのため、スポーツ界における公正性や高潔性の確保が求められるようになっているところです。)

昭和や平成初期までの社会では、例え暴走してもその一部については、結果オーライであればヨシとされる風潮があり、もみ消されたり、時には暴走が美化されることすらありました。それらは「勝利至上主義」のひとつともいえるでしょう。

現代ではスポーツの意義や役割が、社会の中でとても重要なものとなっています。スポーツは、直接実施する人・関わる人だけのものではありません。取り巻く様々な組織や他の社会活動へ与える影響などを十分に考慮した上で、適正に展開されるべきものとなっています。

「昔からやってきたこと」「ほかの組織や地域でもやっていること」などを理由として、情熱の暴走を正当化することはできない時代となっています。

組織の暴走

行き過ぎた情熱は、個人だけではなく組織も暴走させます。

個人の場合と同様、過去慣例や慣習などを理由として、現在得られている科学的知見や社会情勢の変化などに、そぐわない活動が展開され続けている状況が、至るところ・様々な場面で散見されます。

例えば;少年期の過度なスポーツ活動は、子どもの心身の健全なる成長や、生涯にわたるスポーツキャリア形成に様々な負の影響を及ぼすことが明らかにされています。それを助長しかねない、小学生を対象とした各種競技種目の全国大会が未だに行われ続けています。

種目の特性や、普及の程度によって例外を設けることは必要かもしれません。しかし、野球・サッカー・陸上競技など、全都道府県に既に普及しているメジャーな競技種目では、小学生の全国大会を廃止し、それよりもひとりの子どもが複数のスポーツを経験することができるような仕組みづくりを構築することが、本来は望まれるところです。(多くの競技種目では「小学生の全国大会を無くすと、競技人口が減ってしまうのではないか」と危惧されているようです。)

こうしたことは、私が大学生だった約30年前頃から、識者により唱えられてきたことですが、未だ実現には至らないのは残念なことです。

ロゴス=論理の上では「やめた方がよい」「変えた方がよい」と、多くの人々が理解できても、パトス=情熱の暴走は、なかなか止められないものです。

暴走を抑える潮流をつくること

しかしながら;最近の日本社会では以前に比べ、「既成事実化・慣習化した暴走」を抑えようとする潮流が、各所で生まれつつあると感じます。背景には、WebやSNS等の普及により、様々な組織や事業における実態・課題が、即時に可視化・共有化されやすくなっていることが、大いに影響しているものと思います。

陸上競技についてみると、一時期行われていた冬の「全国小学生クロスカントリーレース」が廃止されました。また、夏に行われてきた全国交流大会は、猛暑を避け9月開催となり、種目が変わって規模が縮小されました。それぞれ大変賢明な判断だと思います。組織の暴走(そもそも暴走という表現は適さないかもしれませんが)を抑制し、適正化が図られた例だと考えます。

他の競技をみると、柔道では体重別の小学生全国大会が廃止されました。バレーボールでは「監督が怒ってはいけない小学生大会」というものもあり、特徴的な取り組みだと思います。裏を返せば「バレーボールは監督が怒るのが常識」ということであり、それは、異常な常識です。

小学生だけでなく、中・高・大学生などそれぞれのスポーツ現場でも、「従前の体質」が否定されながら、「時代に相応しいもの」へと、徐々に変化してきているように感じます。いわゆる「部活動改革」の流れも、その一つといって良いでしょう。

結びに

私個人の感覚として、日本スポーツ界全体、そしていわゆる「体育人」の界隈では、未だに経験主義が圧倒的に優位だと感じています。

年功序列であったり学閥であったり、いわゆる古い体質が至るところで幅を利かせています。論理や倫理が軽視されるような風土が色濃く残っています。例えば、議論の着地点は「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」が優先されたりします。(もっとも、それはスポーツ界に限らず、現在の閉塞感の強い日本社会全体に言えることかもしれません。)

一方で、情熱はスポーツだけでなく、人生において欠かせないものです。社会の活力にもつながります。実際のところ、それを抑えたり整えたりすることは、実に難しいことだと思います。

また「行き過ぎた情熱」というものは正直なところ、ある意味「魅力があるもの」、時として「美しいもの」だとも感じることがあります。しかし現在、そうした感覚は社会で通用しないものとなっています。その境(さかい)や際(きわ)を見極めて、決して行き過ぎないことが、とても大切なことなのでしょう。

こうした時代の中において、国では「2回目の東京五輪」、そして栃木県では「2巡目の国体」を終えた現在、次の世代に繋ぐ未来のスポーツ環境について、「情熱を適切にコントロールしながら」より良いものへと整えていきたいと強く願うところです。

私自身、これまでの note に示してきたように、様々な社会情勢の変化や、国や専門機関等が示す知見や方針等を踏まえながら、関わる組織において「行き過ぎた情熱」のもとで行われてきた過去の前例や慣習を見直すように努め、現在の立場で変えられることを積極的に変えていけるよう、取り組みたいと思っています。