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『地震』

先程、2月13日23時08分頃、福島県宮城県で震度6強の地震があり、東京も揺れた。

東北の方々、ご無事であってください。

今日は、なんだか昔のことを思い出したので書いていこうと思う。

〜1995年1月17日阪神淡路大震災〜

今から26年前、俺は当時大阪の自宅で二段ベッドの下段で爆睡していた。

敷き布団全体からズドンッと体全体が宙に浮いたのを今でも覚えている。
花瓶が割れる音、ベッドのきしむ音、母が俺ではなく床に寝ていた長男に飛びついて大丈夫?と声をかけてる様子。
外から地響きが聞こえていた。
恐怖しかない。

揺れはおさまり、散乱した部屋を母と兄2人と一緒に片付けた。
余震は続いていたが我が家は母子家庭で母はご飯を急いで3人に食べさせ仕事に出かけていった。
普段通りの生活だった。

小学生の俺は、兄2人と学校へ向かった。登校中も揺れて電線がグルングルン回ってる中、酔拳のマネをして歩いていたアホな俺を鮮明に覚えている。
学校に到着して生徒は1割程度しか登校していなかった。

薄々気づいていたが、登校している生徒は貧乏家族しかいなかった。
先生達からは、よく登校したな!無理しなくて良かったんだぞ!授業はないぞ。
と、褒められているのか、コイツら正気か?と思っていたかは不明だが、教室でテレビを観ることがなかったので嬉しかった記憶がある。
高速道路が倒れていたり、火事の映像などショッキングだった。
さわやか3組を観たくてたまらなかった。
しかしテレビを教室で観れたのは登校したご褒美だ。

そもそも、我々貧乏家族世帯の子ども達は別にテレビを観に登校したんじゃない。

ぶっちゃけ昼食目当てだ…

テレビを観ながら果たして昼ごはんは出るのか?帰っても母が居ないのでご飯なんて無いぞ。やべえ。
昼食のことで頭いっぱいだった。
しかし休憩時間はグランドでアホみたいにひたすら走り回ってた。生徒が少ないせいでテンションがおかしいのだ。

昼になり給食が出た。
生徒が少ないので、おかわり無限だった。本当に登校して良かった。と、涙がちょちょ切れそうになった。
昼休憩もグランドでアホみたいにひたすら走り回ってた。生徒が少ないからだ。

さすがに先生から帰宅命令が下された。
昼食を食べさせてあげたい学校側の配慮だったのだと大人になってから気付いた。感謝です。

兄と帰宅し母が帰ってくる夜まで兄と机の上に乗り突然来る余震でも机から落ちないか耐久レースをひたすらしていた記憶がある。
アホだった。揺れに慣れたガキは最強だ。地震を遊びに変えてしまう。

休みの日に兵庫県西宮に住んでいる親戚のおばちゃんから、ウチにおいで!と呼び出された。
ガキの頃は親戚に会うのがアホほど楽しみでワクワクしていた。

親戚のおばちゃんの家に到着後、すぐに車に乗せられ、被災地の景色を勉強のため、俺に見せてくれた。
当時学校に置いていた、はだしのゲンを見た衝撃と同じ気持ちになったのを覚えている。怖かった。破壊されてる建物を車の窓から眺めることしか出来なかった。背中に都道府県が書いている消防、警察の姿が脳裏に焼きついている。

しばらく普通の生活をしていると、神戸から転校生がたくさん来た。みんな被災した子達だった。広い空き地にプレハブの家が沢山出来てそこから通っていた子達だ。当時かなり辛かったろうな。
仲良く生活していたが、数ヶ月して突然みんな兵庫県に帰って行った。仲良くしてくれて、ありがとう!と言われた記憶はあるが名前すら覚えていないな〜。元気にしているだろうか。

幼い頃に地震の恐怖を知った。
プラス思考に考えて良い経験だと考えるしかない。
徐々に地震のことを忘れながら俺は大きくなった。

〜2011年3月11日東日本大震災〜

大学で大阪の魂を売り関東人となった俺は就職を東京でした。
仕事にも慣れてきた社会人2年目の冬。
昼頃ゆっくり横揺れの地震が起こった。時間が経つにつれ揺れは大きくなってくる。ふざけていた先輩の顔も段々とマジ顔になり揺れMAXの時は、みんな奥歯を噛み締めて揺れに耐えていた。俺は兄と机の上で耐えて遊んでいたことを思い出した。

数時間後、みんなでテレビを観ていると津波の映像が映し出され、阪神淡路大震災の衝撃の上をいった。これは終わった。と単純に口の中がパサパサになった。この日は朝の4時頃まで仕事が続いた。

渋谷の街はクソだった。駅員に罵声を浴びせるオヤジ、渋谷の街中で帰れない者同士の若者のナンパ。
都会とは、そうゆうもんだ。人としての何かを忘れてしまう。

数週間後、俺は仕事で被災地に行っていた。
目の前の光景は人間の五感全てに感じる地獄。ビビって数分動けなかった記憶がある。
気持ちを入れ替え、私に託された仕事を120%発揮して毎日クタクタになっていた。誰も見ていないが、褒めてもらいたくてやっていない。
この時、仕事というものの本質を知ることが出来た。

被災地は、悲しみの印象より全員で前向きに取り組む姿勢の中で、被災地に居る人達全員が日々生きている中に俺が居る。という感覚だった。
悲しみに暮れてると周りに置いてかれるあの雰囲気は独特で人間の強さを感じた。

東京に戻っても定期的に被災地へ行く機会があり、微力ながらも復興の力になれたこと。これは私の誇りでもある。今でもこの日々は忘れない。


〜現在〜

コロナで大変な中、また大きな地震が来る。そんな気持ちになった今日。
準備と防災関連情報の周知はもちろん必要だが、何よりも覚悟が大切だと思う。
災害はテンパってる余裕はなく、起こった時にどう行動するかによって自分や家族の命に関わる。ビビる前に行動をし、行動できない人を瞬時に助けるのが日本人だと思う。

真面目な話になったが、今回の地震で本当に驚いたのは、予知していた海老蔵はマジでハンパねえ。

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