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備忘録

未推敲

中学3年の夏に、私の父親は眠りについた。鮮烈な記憶な気もするし、もう遠い昔のぼんやりとした記憶の一部に過ぎない気もする。覚えていることも忘れていることも意図的に忘れようとしたことも入り混じって、どんどん遠いものになっていく7年前の出来事を形にできるのは今のうちに残しておこうと思う。

中学3年生の私は、部活も無く根っからの不真面目さを発揮し、受験生だというのに勉強の一つもせず日々ぼんやりと過ごしていた。想像の倍以上の課題が出された中学生最後の夏休み、入っていた予定は運動会の準備練習のみで惰眠を貪ってやろうと腹の中で計画していた。普段ならば家族の中で一番早く家を出る私だが、夏休み初日の私は父親が家を出る音を夢うつつに聞いていた。
それからどのくらい経ったのか覚えてないが、顔を洗おうかなとやっとベットから降りた時、ちょうど家の固定電話が鳴った。ほとんどの連絡手段を携帯電話で済ませている今、固定電話はなりを潜めて、3日に一回働けばいいものなのにこんな朝から不思議だなと思った記憶がある。母親は洗濯物を回してるようだったので仕方なく私が受話器を取ると父親の姉である叔母の声が聞こえてきた。要件などを言わずにただ母親に代わって欲しいとの事だった。その時、私の目からは母親と叔母はあまり良い関係には見えず、あまり母親の機嫌を悪くさせると私の完璧な夏休み計画が初日から破綻してしまうと要らぬ策略を巡らせ、「母親は今手が離せないかもしれない」と余計な一言を付け足してから母親に言伝した。私の杞憂は的をはずれ、何の気なしに電話に出た母だったが、次に顔を見たときは少し強張っていたのが鈍感な私でも分かった。その母親からその時に聞いた言葉は、父親が事故にあったということだけだった。
その後私がどんな反応をしてどんな行動を取ったのかあまり覚えていない。気づいた時には待合室のような場所にいた。その時父親はドクターヘリで運ばれて大学病院の集中治療室にいたことを考慮すると、あれは集中治療室の患者の連れ添いの待合室だったのかもしれない。そこにいたのは母親と妹と叔母と知らない大人だった。その知らない大人はたぶん保険だかの話をしていた気がする。そこでやっと私は事故の全貌を大方理解した。父親は原付で通勤中に自損事故で頭を打ったところに、同じ職場の人が車で通りかかり119番したらしい。叔母もまた同じ職場で働いており、真っ先に連絡が入ったのだろう。全ての対応が早かったことがあり命を取り留めたとも言われた。
そこから不思議な生活が始まった。父親は脳にダメージがあったようで植物状態だった。大学病院から家までは1時間以上かかることもあり、母親は病院に一日のほとんどを滞在していたらしい。集中治療室は感染病などの兼ね合いもあり入ることはできないのだが、集中治療室の患者の付き添いようの待合室のような場所があり、そこにいたようだ。その間私は親戚をたらい回しにされていた。初日は母親の妹の家に預けられた。従姉妹もいるため少し楽しみにしていたが、母親の妹からは過剰なまでの心配を受けて肩身が狭かったのを覚えている。食べたいものを聞かれては回答に困っていた。私は昔から今に至るまで食べ物に対するこだわりもなくよく食べるので1番苦手な質問なのだ。気を利かせて作りやすいであろうパスタを頼んだら冷凍のパスタが出てきて拍子抜けした記憶もある。失礼な話だ。その時の私は解約したスマホを持っており、Wi-Fiのある環境で無限にインターネットに溺れていたのだが、母親の親戚の家にはWiFiが設置されておらず不服だった。オフラインでもできるお絵描きだけをしていた。夏休みの課題もしっかりあったが、手をつけることはなかったし、周りの大人は私のことを可哀想という感情でいっぱいだったのか強く出ることがなかったので、さもすれば夏休みが始まる前に計画した通りの日々だったのかもしれない。
2日目以降は母親の母、つまりおばあちゃんの家に預けられた。近くにコンビニがありおばあちゃんがお小遣いを無限にくれることもあり、お菓子を大量に食べご飯も大量に食べ、としていた時、ボイスレコーダーを預けられた。父親は植物状態だが耳は聞こえているかもしれないという話を耳にした母親が私と妹の声を聞かせるために持ってきたアイテムである。私はその時中学3年生ということで、ボイスレコーダーに自分の声を吹き込むということが嫌で嫌で仕方なかった。わざと気だるげに喋る様子が見て取れるであろうボイスレコーダーがいまも実家のどこかにあると思うとゾッとする。思い出の品でもなんでもなくただの黒歴史だ。
おばあちゃんの家で2日経ったとき、私の体に異変が起きた。と言ってもただお腹を壊しただけなのだが。今思うとストレスが原因なのかもしれないが、気丈に振る舞う必要を感じていた私は誰にも言えずご飯をいつも通り食べてはこっそりトイレに行くのを自ら強要していた。私は元来プライドが高いようで、弱い部分を見せたくないがためにこの期間損をしたことが多いような気がする。
父親が事故にあって1週間が経った頃、毎日夜に1時間弱だけ合う母親は少し痩せていたが、笑顔で、いつ目が覚めてもおかしくない状況らしいという話をした。つまり命に別状はないらしい。病棟も集中治療室から移動したし、面会も行えるようになったとのことだ。母親が喜ぶのとは裏腹に、父親がこのまま起きても脳に障害が残ったりしてリハビリの日々なのではないか今までのような日常に戻れないのではないか、それなら今の植物状態のままの方が自分は楽しいのではないかとすら考えていた。そしてこんなことを考えてしまった自分を今でも恥じている。
おばあちゃんの家にいる間は叔父がアニメを見せてくれたり従姉妹が遊びにきてくれたりとかなり楽しい日々を送ってきた。この頃の私は父親が事故にあったことなんて全く現実味がない現象で、目の前のことを楽しむことでいっぱいだった。悩みはお腹が痛いことと、学校で行われているだろう運動会の準備練習に参加できないこと、毎日ボイスレコーダーに声を吹き込むことの三点だけだった。今やっとわかったのだが、大人は平日で仕事もあっただろうに常に誰か1人私と妹に付いていた。当時はそんな心配しなくていいのに、と自意識過剰なことを考えていたのだが、あれは父親の容体が急変した時にすぐに対応できるようにだったのだろう。それが功を成したのは8月5日の夜中だった。その時皆が寝静まってる中、私は溜まり始めた宿題を見てため息をついていたと思う。おばあちゃんに青い顔で病状が急変したとの旨をつたえられた。父親の弟である叔父さんが車を出してくれ、海岸線を走った。その時のスピードは120キロほど出ており、父親より先にこっちが死ぬんじゃねぇかと思いつつも口に出さずに月夜の明るい海岸線を眺めていた。隣にいる妹は寝ており、かなり大音量でワンオクロックが流れていたが、なぜかとても静かに感じた。
病院について真っ先に病室に案内された。それまで私はまともに一度も事故に遭った後の父親を見ていなかった。病室は大きなベッドに父親が1人寝ており、周りに見たこともない器具が雑多に置かれているようにも見えた。正直変な気分で一言も声を出せず押し黙るだけだったが、周りの大人に手を握ってと言われて渋々触ってみた。この時父親はしっかりと生きていたのだが、ぬるい温度の父親の手が粘土みたいな色をしていて、これは本当に父親なのか死体なのではないかということが脳裏によぎった時、目の前が真っ白になった。この目の前が真っ白になったというのはよく聞く表現だが、実際になったのは初めてで、気づいた時にはベッドの上だった。貧血で倒れたらしい。幸いにもここは病院で、最良の対応を取られてしまったのだ。
その後死に目まで私は父親に会うことはできなかった。死にそうな人間よりも生きてる私の命の方が大事だったのかもしれない。
その日は大学病院の近くに住んでいる父親の姉の家に寝泊まりさせてもらった。この頃の私は多分目まぐるしく変わる状況についていくのが精一杯で、妹が一緒に寝泊まりしていたのかすら覚えていない。ただ置いてあったWiiで遊びたいと従兄弟に言ったら今度ねと流された記憶だけがある。その時の晩御飯は素麺で、置いてあったミョウガを妹が丁寧に避けていた気もするので、やっぱり一緒にいたのだろうか。先述した通り、父親の姉に対してあまりいい印象は持っておらず、始終緊張してトイレットペーパーの予備の位置すら聞くことがままならなかった。眠る場所はベッドを貸してもらったのだが、元々ベット派な私がここ1週間以上布団で寝ることを余儀なくされていたためか、かなり熟睡ができた。そして、起きると同時に病院へ連れてかれた。
病院に行くと父親に近しい人が既に数人おり、正月みたいだなと能天気なことを考えていた。私を見た親戚が頭を撫でてきて励まそうとしてくれてるんだろうなと頭では分かりつつも、触られるのが嫌いな私はかなり不機嫌そうな顔をしていたと思う。お腹すいていないかと聞かれ、病院の中に入っているローソンに連れて行かれた。建物の中にある建物という構図に謎に興奮した私は大量のおにぎりと唐揚げくん全種類を買ってもらいにこにこしながら待合室で食べた。誰か大人の人は私の奇行を止めてくれと思うのだが、とんでもない腫れ物扱いをされていたのだろう。その後はソファーがこの字に並んだ部屋に幽閉されていた。幽閉されていたというのは言い過ぎだが、久しぶりのWiFiが使用できる環境に喜んだ私は他の人がどこかに移動するのを横目にスマホをいじり続けていたら誰もいなくなっていた。持ち前の方向音痴によりここまでどのように歩いてきたのかなど1ミリも思い出せず、その場に留まるしか無くなってしまった私はソファに寝転がり天井を見上げていた。なんだかんだいつも誰かしら周りにいた環境だったので、久しぶりに一人になった状況はかなり居心地が良く、周りから気を遣われることや様子を窺われているのは疲れるんだなと再確認した。そしてこれから先そうやって周りに人がいる環境が長いこと続くんだろうと覚悟をしたのも覚えている。私はこの時も薄情で、ここまで大ごとになって生きてましたとなるのはなんだか恥ずかしい気もするからこのまま父親が死ぬ方がみんな納得するし良い気もしていた。ここまで色々な親戚が出てきたと思うが、親戚が皆シングルマザーというかなり偏った家系で、私もその仲間についに入るのかと、父親がいない環境が案外想像つくなくらいにしか思っていなかった。
この日はそのままコの字型に置かれたソファで数人の親族と眠った。夜中に一度起きたとき親族が薄暗い光に死体のように並んでいてゾッとした覚えがある。改めて目が覚めると私以外全員起きており、近くにいた叔母さんに他の人もいっぱいくるよと伝えられた。理想の死に方に、たくさんの親族に見守られて安らかに息を引き取るというのがあると思うが、そんな情景が思い浮かんだ。いまだに母親とどんな会話をどこでどのくらい交わしたのか全く思い出せない。本当に一言も話してない可能性もあるくらい思い出す母親は無言で私のそばにはいなくって、どこにいたのかすら分からず、その時の母親は川の対岸にいたような感覚を覚える。
夕方になって、また父親の寝ている病室に呼ばれたが、その時の記憶はあまりない。一度目に貧血を起こしたのもあり長い時間入れてもらえなかったし、ひたすら隣にいた大人から声をかけてあげてと言われ、ここで気の利いた一言ってなんなんだろうと考え込んでしまった。その時も何も言えなかっただろうが、今ゆっくり考えてみても何を声かければいいのか思いつかない。「今までありがとう」が妥当だろうか、しかしそれを言ってしまうと死ぬことが確定事項で縁起でもないなと当時も思った。ただ無言で生きてるのか死んでるのかもわかんない父親を眺めただけで病室から出た後は廊下で時間を潰した。
時間が経つごとに見たことのある顔ぶれが増え、しまいには見たことあるのか怪しいくらいの人たちも集まっていた。遠い親戚のおばさんたちが私に辛かったねと声をかけてきたが、あまり辛い思いはしなかったし、辛いのはこれからだろうという意思もあった。そのおばさんたちが病室に入ってしばらくした時に父親が死んだらしい。ふと、夜に爪を切ると親の死に目に会えないという迷信を思い出した。しかし考えてみると、父親と最後に交わした言葉がなんなのかすらわかりはしないが、死ぬまでの猶予の時間があり心の整理ができていたというか、死ぬことが分かりきっていてなるようにしかならないんだなと半分諦めに近い感情を持って死に目を迎えられたなと私は思っていた。
父親の死亡時刻は夕方だったのだが、父親が死んだと分かった瞬間から世界が暗くなったような気がした。そこに母親の姉であるおばさんがやってきて、頑張れと声をかけてきた。一体私は何を頑張ればいいのか全く想像もつかなかった。父親が死んだら私の環境の何が変わるのか、失ったものが具体的にはなんなのか一つもわからなかった。実感がないというのはこういうことなのか、死んだのが父親だからではなく、ここで家族全員死んで天涯孤独になってもわからなかっただろう。今考えてみれば辛い気持ちを乗り越えようねくらいの具体性のない応援だったとわかる。しかし当時何もわからない私は曖昧に返事をして何かしなきゃいけないのかと周りを見渡した。みんな暗い顔をしていた。それもそうだ、人が1人死んでいるのだから。仕事終わりに駆けつけてくれたのだろう父親の友人がちょうど合流しておじさんから話を聞いていた。暗くて表情があまりわからなかったが笑顔なのか泣き顔なのか涙は流していなかった。ふと、自分の友達が死んだらどうしようと思った。父親っていうのは与えられた役割でもあり、誰が父親でも同じかもしれないが、この人たちは私の父親を選んで友人になって、もう20年も付き合いがあり、なんなら私より父親のことをたくさん知っているのだ。そのことに思い至った時、父親の友人に対して気の毒だなと思ったし、同時に世間的に気の毒なのは私の方であることも思い至った。そこでやっと大人たちのよそよそしさに合点がいったのも覚えている。
その後家に帰った。久しぶりの家ではあったが、別に昨日も普通に過ごしていた気もしていたというのに夏休み前の残骸が残っていて少しうんざりした。晩御飯は何を食べたのか覚えてないがコンビニ弁当だった気がする。私はこの日を境にご飯をコンビニで済ませることが多くなった。普通にお風呂に入って普通に二段ベットの上の段で寝た。夜中すすり泣く声が聞こえたが夢かもしれない。そして普通に起こされて、普通に制服を着て準備をした。おじいちゃんやひいおばあちゃんなどが亡くなったのが最近だったからか、今自分がやらないといけないことがなんとなくわかっていた。父親の遺影を持って黒塗りの車に乗せられた。クラクションを鳴らしていた気もするがこれは事前知識から来る思い込みかもしれない。葬式場の控え室にいると次々と人が増えて肩身が狭くなったが、葬式の時の偉さは死んだ人の親等が近い順だという謎の理論で堂々としていた。私より悲しむ権利がある人間なんて数えるほどもいないとすら思っていた。今思うと、この悲しむ権利みたいな考え方が自分の首を絞めていたのかもしれない。ここに至るまで私は一度も泣いていなかった。
初めて声をかけてきたのは母親の妹だった。しっかりしないといけないよと、またこれかと思った。何を頑張って何をしっかりしないといけないのか。母親と妹の面倒を見ないといけないのか、ふと母親を見ると確かに顔色は良くなかったし、妹は不機嫌極まりない顔だった。ここに至るまで妹とはずっと近くにいたはずなのだがやはりあまり印象はない。妹はその時小学四年生で、どこまで何を理解できているのか不安になった。父親が死んだことは明言されただろうか?誰かがそれを伝えないといけないはずだが、そんな役は誰もやりたくはないだろう。しっかり頑張らないといけない私は妹に近づき、明日はお父さんのお通夜で、お通夜は人がたくさんくると言うことを伝えた。妹は分かってると事も投げに言って頷いた。頷いたように見えたがそのまま俯いたまま泣くのを我慢していた。ここにきても私は第三者で気の毒だなと思い、私の影に妹が入るように座った。分かってなかったのは私だったのかもしれない。
その日の夜は寿司をだったのだが、当たり前にわさびが入っていて誰も子供のことを考えなかったのかと不満に思ったし、もしかしたら今までワサビを抜いてくれていたのは父親だったのではないかと思った。いつの間にか追加されていた巻き寿司を確保しつつ、妹の分のビニールを剥がしてあげた。しっかり頑張らないといけないのはこう言うとこなのかとずっと疑問に思っていた。大人たちは父親のエピソードを酒の肴にしていた。葬式の前のあるべき姿といえばそうなのかもしれないが、私より父親のことを知らない血の繋がりだけの人たちが父親の死を祝っているように見えて気分が悪かった。縁もたけなわではないが、そんな食事も早々に終わらせて寝るかと言う段階になった。日本には人が死ぬと線香を焚き続けると言う謎の文化がある。鬼を避けるためだとかいろんな伝承があることは知っているが、死んだ人間より生きた人間の睡眠時間の方が大切だろうと思うのだが、私の親戚は律儀に守るようで、交代の番を決めていた。しっかり頑張らないとと思った私はそれを寝たふりして見守っていたが案の定10分もせずに眠ってしまった。ここまでの分で薄々気づくかもしれないが私は食事と睡眠を人の倍とるのだ。起きた時は父親の弟がうとうとしながら渦巻き状の線香を眺めていた。兄弟が死ぬのってどう言う感情なんだろうと思考を巡らせるも、全く想像がつかない。この時誰もが私より父親の死を大事として捉えているようで実感がないまま振り回される私は感情の置き場を他人を模倣して見つけるしなかった。
本格的に目覚めたら父親の死を証明しなければならないようで、死亡証明書だったり保険関係のことを進めていた。文章を読む癖で色々読み漁っていたが事務的な内容ばかりで父親の死を弔う内容はひとつもなかったことを覚えている。母親と父親の両親が何か揉めていた。こんなことを赤裸々に語るものでもないと思うが、父親の両親は借金があり私たちの家族も援助していた。保険の名義が変更されておらず、母親ではなく父親の両親が保険金の受け取り人になっていたのも揉め事の理由だった。たくさんの親族に囲まれて穏やかに眠りにつくというのを夢想したこともあったが、遠く離れているなとこの時呆れたものの、お金というのは私にとっても大事なものであることは重々承知していたので、必要以上に祖母と祖父に冷たくあたったことを後悔している。
父親は早く死んだこともあって、お通夜葬式共にたくさんの人間が集まった。受付を母親の友人が行っていたがとても忙しそうで、父親なんて他人だろうとまた気の毒に思った。お通夜の開始前に会場の前で知らない人に頭を下げ続ける作業を行なっていた。父親の何かしらの関係者なのだろうけど、全く誰か分からず、向こうばかりが一方的に私のことを認識していて、やっぱり私は父親のことを何も知らないんだなと思った。しばらくすると私のクラスメイトが見慣れた制服でやってきた。友達を見ると脊髄反射で笑顔になったが、こんな場で歯を見せるのはどうなのかと思った。実はこの3ヶ月ほど前、クラスメイトの母親が亡くなっており、逆の立場を経験したばかりだった。その時母親を亡くしたクラスメイトは号泣していたし、会場の後ろに寄せ書きなどが飾られていたことが頭をよぎり、自分の薄情さを感じたものの、やっぱりどうすれば良いのか分からず歯を見せてしまった。
お通夜もつつがなくおわり、また頭を下げる作業をした。誰か分からない女の人が私が今まで見た中で1番激しい号泣をしていたことや、ずっと隣で啜り泣く母親や、やはり誰なのか分からないおばさんからの励ましなど、どうすればいいのかわからないことが沢山あって考えるのをやめてしまった。これは後から盗み聞きした内容なのだが、号泣していた女の人は不倫の相手なのではとまことしやかに噂されていたようだが、そんなのは子供の私は知らないでいいことだと思うので、笑い話くらいに思っている。
待合室に帰ると知らない親戚が前日以上に盛り上がっており、話しかけられては要領を得ない答えを返すしかない自分に嫌気がし、こっそり葬式会場へ抜け出した。間接照明や漏れ出した光のみの薄暗い部屋の中心に父親だったものがあった。やはり薄情な私はそれを死体としてしか見れず、死んだ後の父親の姿をゆっくり見る初めての機会だったが、なんだか土塊に見え始めたそれが気持ち悪くすぐに離れてしまった。その後は何のためにあるのかわからない椅子に座って今後のことについて考えた。今後のことと言っても自分の身の振り方だったりではなく、夏休み後半は運動会の練習に出れるのか、宿題はどうサボろうかなど本当に目の前のことだけを考えていた。途中で今でも毎日連絡を取り合うくらいには仲のいい従兄弟と合流して喜んだ。一年以上ぶりの再会でこんな機会でもないと会えないのかと思った。父親とはもう会えないことを思うと皮肉だ。
この後のことはよく覚えてないが起きたら葬式の準備が始まっていた。母親は黒い着物を着ていたが驚くほど似合っていなかった。夫を亡くした妻という役割を全うしているようで、違和感を感じていた。病院に通っていた頃は見えていた白髪もいつの間にか染められていることにその時初めて気づいた。全てが黒く塗りつぶされたようで母親が何を考えているのかわからず怖かった。
葬式会場はモニターなどを利用してニ会場を使う形でとりおこなわれていたのだが、父親は市役所に勤めており、PTA会長をし、消防団に所属していたこともあって駐車場まで人がいた。真夏だというのに野外で消防団の制服に身を包み参列する姿を見て、こんなに慕われているのかと父親を誇らしく思った反面、またさらに父親が私の知らない遠い存在となった。
妹は私のそばを離れず時折袖を引っ張っては不機嫌な顔をしていた。気の毒で不憫でしかたがなかったが私にできることといえば葬式での作法を教えることだけで、焼香を額に近づける動作に何の意味があるかもわからないのに教えていた。父親だったものに花を添える理由も吸っていたタバコを持たせる理由もお酒をかける理由も文面として知っていても、いまいち納得できないまま形だけ従っていた。お坊さんの葬式は残されたものが心を落ち着かせる場所でもあるというありがたい言葉もうまく咀嚼できなかった。
気づいた時にはバスに乗り込んで火葬場に向かっていた。見慣れた海岸線を乗り慣れないバスで向かう途中外はやけに眩しく目を逸らすようにバスの中を見ると涙を流している人間ばかりで、泣いていない人を思わず探したが、すぐに乗り物酔いを起こしてしまったので目を細めつつ外を眺めることに勤しんでいたら火葬場に着いた。私の体の弱さは親族皆知っているところで、火葬場の匂いだけで熱を出してしまった過去のある私は中に入れてもらえなかった。そこにはベンチすらなく疲れた私は大理石のような床にそのまま体育座りをして時間を潰した。何も考えてなかったと思う。奥の方でお坊さんの声が聞こえて、また静かになってきっと骨壷に骨を入れる作業をしてるんだろうなと思った。人が死んだら行わないといけない儀式が沢山あって面倒だなとしか思えなかった。
そこからは何かあるわけでもなくとんとん拍子にことが進んで家に帰っていた。気づいた時には母親と妹は疲れからかベッドに入っており、静かだった。家はやけに広く暗かった。シャワーを浴びながらこの怒涛の日々を振り返ろうとしたが何も思い出せなかったのを覚えている。私はずっと部外者だったかのようだ。ただ私がこれから何をすればいいのか分からず不安だった。髪を乾かしベッドに潜り込んだ時もこれから何をすればいいのかを考えていた。ふと、父親に相談したらなんていうのか、父親なら何をするのかという考えに至った。その時までいろんな人が何を考えてるのかとか、何を思ってるのかとか、何で泣いてるのかだとかを考えてきたが、今回の主役の父親が何を考えていたのかなんて少しも考えていなかった。父親は事故に遭ってドクターヘリに乗るまでは意識があったらしい、そこで何を思ったのか、私がボソボソボイスレコーダーに吹き込んだ声をもし聞こえていたならば何を思っていたのか、父親の意識が今どこにあるのか誰も分からないが、何を思ってるのかということを考えた。無性に涙が出てきて止まらなくなった、今まで泣けなかった分を稼ぐくらいの勢いで、でも母親と妹を起こさないよう声を殺して泣いた。父親は最後に私を残したことを後悔していればいいなと強く思った。

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