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ICUC-127_2022.9.19【台風の中、因果応報と罪とバチについて不謹慎に顧みる】ICUC知的好奇心向上委員会

【ICUC知的好奇心向上委員会】の私の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee !

角田陽一郎127「台風の中、因果応報と罪とバチについて不謹慎に顧みる」ICUC知的好奇心向上委員会

インボイスとか入管とか税法とかの施策諸々、なんていうか普段SNSとかでいろいろ言われてるいわゆる立法や行政に携わってる偉い人たちが、下々のの庶民に淡々と復讐してるんじゃないかと、思えてしまう。
国に黙々と復讐されてるんだな、我々は。
さて、その復讐に耐える?降参する?反撃する?
なんかそんな選択のタイミングがそろそろやって来る気がする。 

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

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動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

三連休の台風の月曜日

 おはようございます。ICUC知的好奇心向上委員会でございます。えーとですね、あのー、毎週週末にお送りしてるんですけども、三連休の場合は週明けでもいいかなーなんて。今日は月曜日でございますが、月曜の午前中から配信しております。えー、台風、ですよね。今日僕のい居るところはね、関東で、なおかつ東京近郊でございますが。朝起きたらめちゃくちゃ晴れてて。なんか穏やかで。あ、こっちは大丈夫なのかなーなんて思ってたんですけど、今すんごい大雨でですね、目の前に風と大雨が襲って来ていてですね。で、襲って来ている中で配信してるんですけど。なんかこう、これ外に行けないじゃないですか。まあ行こうと思えば行けるのかも知れないですけど。で、外に行けないなーなんて思いながらこういう所に居ると、なんかすごい隔離されてる気分になりますね。絶海の孤島に隔離されてるみたいなのよくあるじゃないですか。ああいう、なんかこう台風の中にいる時ってなんかいつも隔離されてるなーなんて思うんですけど。今は、今日はそんな気分の中でですね、ちょっと喋ってみようかなーなんて思っております。
 あのー、ね。だからたぶんこれマイク…風の音とかちょっと拾ってんじゃないかな?雨の音とか。パシャパシャパシャパシャと。うん、ただこれ九州とかね、山陰地方とかでしたっけ?今ちょうど居るみたいだから、被害に遭われている方は、直撃の方は本当にね、身の危険を感じる様な中でね、自然災害の怖さというかね、身に染みますよね。なんか僕なんか今さっき絶海の孤島に居るみたいだって言いましたけど、言うてもなんかこう、なんて言うんでしょうね、建物の中で守られてるというか、シェルターの中に居るからちょっと安全だと思ってる自分がいるんでしょうね。だって別に窓のところに雨戸を閉めてとかやってるわけじゃなくて、むしろ雨と風を観察しながら──目の前に窓あるんですけど──やってるっていうのはなんか、うん、面白いと言うとまたすごい不謹慎な感じしますけど。
 今、不謹慎って言いましたけど。不謹慎な量が増えてますよね?最近ね。うん、でも不謹慎な事って別に言ってもいいんじゃないかなーって、言ってもいい社会になった方がいいんじゃないかなーなんて、ちょっと思ってんですけどね。誰かがこれを言ったとか、誰かが…この人がこんな事言ったとか。別に流せばいいんじゃないかなーなんて。だからその言った事がそういう行動に紐づいてとか、その言った人がやった行動が結果色んな人に被害を及ぼす、影響力がある人だったら…みたいな話になると思うんだけど。でもまあ言う事とやる事ってちょっと違うじゃないですかね、なんか、うん。
 でも面白いですね。一方でウェブとかSNSとかもそうだし、元々のマスメディアってのも言う場を与えてるわけですよね。言う場があって、どんどん皆んなコメントしていくんですよね。で、そのコメントしていくということで不謹慎だとか言われたりするわけですよね。だってこのYouTubeだってね、別にやらなきゃいいわけで。自分の意見を述べてるわけだから。つまり不謹慎なものが自動的に現れる場を作ってるとも言えるわけですよね。なんなんでしょうね?一体ね。この人が発言する事とかね。なんかそんな事をすごく思ったりもしますね。うん。

LOVE TOGETHER

 あの、何喋ろうかなーなんて思っててね。そういう意味で不謹慎な事喋ってみようかなーってちょっと思ってたんですよ、昨日とかから。昨日の夜。で、昨日の夜、本当はこう不謹慎な事を喋ってみようかなと思ったんですけど、昨日の夜は高橋幸宏さんの50周年ライブがNHKホールであって。「LOVE TOGETHER」ってタイトルだったんですけど。本当に高橋幸宏さんね、今ご病気で、ご本人は出られなかったんだけど。そのご本人が今まで一緒にジョイントしたアーティスト──僕が大好きなムーンライダーズの鈴木慶一さんをはじめ、YMOの細野さんとかね。原田知世さんとかね。サディスティック・ミカ・バンドの3代目ボーカルの木村カエラさんとかね。もうたくさんの方が色々…立花ハジメさんとか出てきたりとかね、うん。坂本美雨さんとかね。出てきて頂いて。で、高野寛さんはね、そう言えばそうですよね、TENTレーベルって高橋幸宏さんとムーンライダーズが作ってたポニーキャニオンでのレーベルでのオーディションで確かデビューされたのが高野寛さんで。で、その高野寛さんがね、バンマスというかむしろ音楽プロデューサーみたくなって、司会進行もしつつやってたりしてたんですけど。なんかすごい愛に溢れた良いバンドになってて。良いコンサートだったなーなんて思うわけです。
 うん。それを観てたらね、なんか不謹慎な事とか言わない方がいいなーって(笑) ちょっと思ったりして。で、昨日のうちにね、この海の街の方に戻って来て。夜喋ろうかなーと思ったんだけど、なんかそういう愛に溢れたライブを観た後は愛に溢れた感じで終わりにしとこうかなーなんて思って寝ちゃったんですけどね。

因果応報教

 うん。いや、大した不謹慎じゃないです。全然不謹慎じゃないんだけど、僕がなんかこう、すごい思ってる事って、うぅ~ん、まあ、僕が思ってるというか皆んな思ってるんだと思うんだけど。因果応報ってやつですかね、要は。因果ね、原因の因と結果の果って書いて因果だと思うんですけど。因果応報っていうのを多分僕は結構信じていて。たぶん信じていてって言うか、殊の外信仰している…僕は因果応報教の人間なのかも知れないなってぐらい因果応報ってのをすごい信じてるわけです。
 で、そうすると、なんか嫌な事とかがあった時に、これはかつて自分が嫌な事をしてしまったから、その因果が巡り巡って自分のところにやってきてるんだろうなーなんて思ったりしてるわけです。で、それって”自分が”だったらまだ自分の反省で済む問題だからいいんだけど、ちょっと不謹慎だなーって言ったのは、僕は他者についてもやっぱりそう思っちゃうっていう自分がいてね。それが正しいかどうかは分かんないんだけど。だから他者の人、他者の人ってのはおかしいな…、他者。誰かがね。なんかこう災難に遭うとするじゃないですか。で、災難に遭った時に可哀想だなーとも思うんだけども、それはその人の蒔いた種、まさに因果がその人に報いを与えてるんじゃないかなってやっぱり思っちゃうんですよね。でもそれを言うとね、だからこの台風の中でね、そんな事ばっか言うとね、それって自然災害に遭われた方にはなんかバチが、罰があったのか?っていう風に思われちゃうじゃないですか。そう、だからそういう意味でこの台風の中でこういう話を喋るのってめちゃくちゃ不謹慎だなーなんて思うんで。だから、まあ言ってみれば罪と罰じゃなくて『罪とバチ』って言うか。うん、僕は『罪とバチ』っていうのをすごい、僕の中での因果応報教では『罪とバチ』というのをすごい信奉してるんだなと思いますね。
 うん、罰ってね、キリスト教的な概念の罰ってのもあるんだろうと思うけど、基本は刑罰だったりするじゃないですか。だから例えばね、東京オリンピックの件でね、高橋容疑者がなんか捕まってますけどね。なんか色んな事を思うわけですよ。でもまあ結果的に罰が与えられそうな感じってことはやっぱり罪があるからなんでしょうね。うん、でも一方でああいう人が居なければオリンピックみたいな、国家プロジェクトみたいなものが日本に来てたのかなーなんて思ったりすると、実はああいうイベントごとをやる上での原罪って言うんですかね。そういうものってあるんじゃないかなってすごく思ったりするんですよね。
 うん。それって、なんて言うんでしょうね、僕らが生きている上でも原罪ってのがあるわけですよね。キリスト教徒的なこと以上にですけど。だって僕らが、僕が車に乗ればその分排気ガスを排出してるわけでね。僕が何か食べればその分ゴミを出してるわけでね。焼肉を食べてればその分殺傷しているわけですしねっていう原罪みたいなものってあるじゃないですか。で、そういう原罪って罰してたら生きていけないから罰せられない様になってるんだと思うんですけども。その中でね、イベント事をやるとか、エンタメをやるって、もしかしたらそういう法に触れる、罰になる様な原罪みたいなものをそもそも持ってるんじゃないかなって。それエンタメじゃなくて政治ってのもそうだし、経済ってのもそうだと思うんですよね。で、もしかして、もっと大きい話で言えば国家間っていうのもなんかそんな様な気がするんですよね。うん。
 で、いざ罰する時ってその事ってちょっと棚に上げられるじゃないですか。それがなんか僕の中ではちょっと釈然としないって思う時が時々あるんだよなー。いや、いやそれは法律…まあ法律と言うとまた、法律違反は法律違反ですからダメですよね。うん、でも、戦争で人を殺すことは法律違反じゃないって言うのって大きな矛盾な気がしますよね。むしろ軍人は戦場でそういう行為を拒否した場合、軍法会議にかけられるわけですもんね。だから大いな矛盾をすごい感じるなーなんて思いながら、まあそれが世界というか世の中なんだなーなんて思った時にね、その矛盾というか成立しない世の中で自分が生きていく上での拠り所になる考えはなんなのかなと思った時に、僕の中では因果応報っていうものを、自分の中では信じていくしかもう、なんかね、生きていく上での基盤にならない様な気がするんですよね。この悪い事をやったら自分に悪い事が起こるわけだから、悪いことはやらないっていうシンプルな考え方。

不幸に見舞われたら

 でね。だからこれを不謹慎だなって言ったのって、もう僕の知り合いとかでなんか最近不幸に見舞われた方がいらっしゃるんですよ。で、そのことに関しては、うん…可哀想だねと言うか。可哀想だねって言うより不幸だねっていう風な感じで周りの人と話したりもするんだけども。一方で僕はその人にすごい、本当に5、6年前にちょっと冷たいことをされた事があるんですよね。で、その冷たい事をされた事に「それはないんじゃないの?」って僕はちょっと思った事があって。その前までも20年ぐらい知り合いだったのかな?詳しく言うと、どんどん詳しく言うと誰かバレちゃうので言わないんだけど。うん。そんな20年ぐらい知り合いだったのにその態度はないんじゃないかな?って思った事があったんですよ。で、思った上で、それから数年経ってその人にちょっと不幸があったって聞いた時に、…”ざまみろ”とは思わないけど、因果応報、ああそういう事なのかってちょっとね、思った事があるし、今でも思ってるんですよね。
 なんて言うんだろう?それは僕にそういう言葉を投げかけた、そういう態度を示したからっていう事でもなくて。僕にそういう態度を示したってことは僕以外の人にもそういうやり取りをしてるんだろうなと言うか、対応してるんだろうなってのが透けて見えるじゃないですか。だって別に取り立てて仲が悪くもなかったし。まあすげー仲良くもなかったんだけど。って思った時に、ああ、そういう態度を僕にしたって事は色んな人ともしてるんだなっていうのってのは、因果で言うとそういうものが積み重なってるんじゃないかなちょっと思ったりもするんですよね。うん。全く根拠ないですけどね。うん。だからその人が不幸に見舞われた時に、ああ、自業自得って言うとすごい嫌な言い方というか自分は何様なんだよってことなんだけど、なんかそんな風に思った事があるんですよね。
 あとね。うん、有名人、有名タレントでもあります。そういう思いがある。それこそまた数年前なんだけど。その対応はないんじゃないかな?って思った事をされた事があるんですね。すんごい悲しかったんですよ、その時。まあその方には他意がなかったんだろうなと思うんだけど。そうなんだけど、でもその方が数年後、つい最近かなぁ、ちょっと不幸に襲われた時に──全く関係ないんですよ、その事とその事って。全く関係ないんだけど、ああ、あの時のその感じが招いたんじゃないかなってまた根拠なくね、思ってしまう自分がいるんですよね。
 で、この話の帰結点なんて別にないし。何が言いたいかなんて事もそんなにないんだけど。それが無自覚なのか、意識してやってるのかってあるじゃないですか。そのね、さっきの僕の知り合いってのと有名人って方も、多分ね、無自覚なんだと思うんだよな。いや、意識してやってるなら相当嫌な人ですもんね。うん、だから因果応報って嫌な事がっていった時に意識的にやってるんだったらやられたらやり返せみたいな事というか、…分かるんだけど。なんかちょっと無意識なんだろうなって思ったりするわけですね。
 とするとですね。無意識で相手に嫌な思いをさせてるってことは、自分、僕、私、角田陽一郎も絶対やってるんですよね。そう、だからこの話って考えれば考えるほど際限がないと言うか。たぶん自分も無意識に、無自覚に、相手を傷つけてることなんて沢山たくさんあるんだと思うんです。きっとたくさんやってますね、うん。たくさんやってるんだろうなぁ。無自覚だから気付いてないって事とか。で、その人とかがきっと、例えば…どこまで恨んでるか知らないけど、恨んだりしてますよね。で、僕に例えば不幸な事が起こった時に、「ほら見ろ!」って思ってんのか、思ってないのかは知らないけど。っていう風に思う、みたいな事を僕がその人とかその有名人の方に思ってるだけなのかも知れないんですけどね。だから何の帰結もないんだけど、この話って。うん。

 でね。じゃあどうすればいいか?って言うと、どうすれば良いかも何もないんだけど。自分として『罪とバチ』って言いましたけど、バチが起こる様な罪はなるべくしないように生きようとするしか、もう…解決策にもなってないんだけど、日々の行動理念としてはそれしかないんだろうなーなんてのは思ったりするわけです。出来てるか出来てないかはともかくね。うん。
 で、その罪って言うのは何を罪とするかってのは、法律で罰せられれば罪、法律で罰せられなければ罪とか、社会慣習状罪・罪じゃないみたいな話というのとは僕の中ではちょっと違うんですよね。それってなんて言うんでしょうね、フランス革命が起こった時に民衆がバスティーユ監獄を襲撃してる時に襲撃してる事自体違法ですもんね。うん。だからその時その行為をやっているって事がその時の法律とか決まりで違法だとしても、それが人類にとって必要であるならば、やっぱり必要なんじゃないかなって思ってます。その人類にとってって言うのはまた解釈が様々さし、人類にとって必要な事って個人が思ってるだけかも知れないしね。個人、つまり僕がね。
 だからその行動が正しいか正しくないかなんて全然分かんないんだけども、少なくともその行動理念というものが罪があるか罪がないかというのは個人の尺度で決めて良いんじゃないかなーなんて僕は思ってるわけです。
 だからそうすると、安倍晋三首相のね、話とか。オリンピックの高橋容疑者の話とか。うん、それが悪いか悪くないかってのは東京地検特捜部から見たら悪い・悪くないみたいな話と、彼らが思ってた悪い・悪くないの話って、なんかちょっと次元が違うんだろうなーなんて思った時に、うーん…それでいいのかなーなんて思っちゃったりするんですけどね。何かね、そう。なんかそんな事をね、今週はずっと考えてて。だから僕数日前にね、それこそインスタとかSNS、Twitterに上げたんですけど。

インボイスとか入管とか税法とかの施策諸々、なんていうか普段SNSとかでいろいろ言われてるいわゆる立法や行政に携わってる偉い人たちが、下々の庶民に淡々と復讐してるんじゃないかと、思えてしまう。
国に黙々と復讐されてるんだな、我々は。
さて、その復讐に耐える?降参する?反撃する?なんかそんな選択のタイミングがそろそろやって来る気がする。

 っていうことを書いたんですけど。なんか、伝わりますかね?なんか様々な制度とか仕組みって、基本は国民というか、人民というか、民衆というか、庶民というか、生きやすくするために作られるべき──だからその「べき」ってのもさっきの、フランス革命って言いましたけど、昔はそうじゃなかったわけですよね。王侯貴族、金持ちとか王侯貴族が快適に暮らせるようにって事でそういうルールが作られて。ブルジョワジーというのが出て来て。俺たちにもっていう風に考えて。そこから人権みたいなものが生まれて来たわけだから。その考え方だってめちゃくちゃ人類にとっては新しい考え方なんだと思うんだけど。ただ、なんかこう、この最近の転換点でいくと、なんかこうちょっと復讐してんじゃないかなって、ちょっと思っちゃう様な制度みたいなもの…で、その復讐とは言わないんですよね。これこれこういう理由があるから、こういう風にやって、ってやってるんだけども。うん、ぐいぐい首を絞められてる感じがすごいするなーってね、なんか本当に、税…インボイスとかね、それこそ税のこととか考えてるとね、働けど働けどみたいに思ったりするわけですよ。

圧政とは何か

 なんかそう思った時にね、じゃあそのフランス革命って何で起こったか?みたいな話で言うと、究極的には教科書とか見ると圧政に苦しんだ民衆はって言うんだけど、じゃあ圧政って何だ?みたいな話だと思うんですよね。で、圧政って何だ?って色々圧政はあるんだけど、一番人間として全く認められない圧政はお腹が空くことだと思うんですよね。そう。もう、餓死というか。もう全く食べるものがないやってなった時に、食べ物がないっていう事に対する時はこのままじゃ死んじゃうからってことで反抗に及ぶという事だと思うんですよね。それ以外のことは大概みんな我慢するんだけど。で、食料危機ってのがたぶん一番の要因だったんじゃないかってフランス革命の時は言われててね。うん、パンを求めてじゃないけどね。
 そうすると、そこまで行ってないとはいえ、なんか、いつそこまで行ってもおかしくないなーっていう時代というか季節というかね、時節というかになって来てるなーと思った時に、なんかそのお上がやっている事が仮にそういう下々の庶民に淡々と復讐してるんだとするならば、その復讐という因果というか、なんかそれに僕らは耐え続けるのかな?とか。降参するって…、降参して…どうすればいいんでしょうね?はい、もう、全く従順にその通りですみたいな事なのか?一方で反撃するのか?みたいな事って、なんか真剣に考えた方がいい様な気がちょっとしてるなーなんて事を思ったりしてこんな事を書いたんですね。
 でもこれって言えばすごいそういうのを扇動して具体的にやると国家反逆罪みたいな話にまたなっちゃうんですよね。国家反逆罪ってめちゃくちゃ重いんですよね、確か。無期懲役を死刑しかないんでしたっけ?みたいな、うん。なんかね、そんな事まで思いながら、もっと極小な世界の中でもね、自分の中での因果みたいなものってすごい考えるなーなんて思います。
 そう思った時に、人の罪って一体なんなのかなーって言うかね。それを今の社会理念とか、規範とか、法律に合っている事をやっていれば罪ではなくて。うん…、なんかこう自分が正しいと思う事をやっていると罪になるみたいな事って、その正しさみたいなものがね、うん、お上の復讐でやられたものの正しさだったら果たして正しいのかなーみたいな風に思ったりするというかね。
 で、またそのお上って言ってるけどお上の中で働いてる人のほとんどは庶民だったりしますからね。複雑ですよね。その庶民の方も、そのお上の中で出世しよう、あるいは出世しようまで行かなくても上長が言ってるからその通りやってますみたいな人がほとんどだと思うんだけどね。うん、でもそれで結果的に因果が巡っていくのってのは、歴史だなーとも思うし。面白いなーとも思うんだけども、うーん、…自分は、さて、どうしようかな?なんて思ったりするかなーなんて思いますね。うん。まあね。

【HozuTalk】戦争とアート

 今、台風がパタッて止まりましたね。

 うん、これね、山本豊津さんと、東京画廊の山本豊津さんとね、話した豊津徳【HozuTalk】ってのをやってますけど。この前「戦争とアート」って語ったやつだけ文字起こししたやつがあるんですけど。それ、ちょっと読んでほしいなーと思うんですけど。あ、まあ動画を見ていただいてもいいんだけど。あれなんですよね。僕は歴史を動かすもので言うと”戦争と疫病と震災・災害・天災”…、天災と疫病と戦争は歴史を動かすっていう話ってのはみなさんが言ってるし、そう思うんだけど。この中で天災と疫病って人類にはどうしようもならない所もありますよね。自然的なものだから。とするとね、僕がさっき言った因果応報の因果って、自然的なものに関してはそれをちょっと超越してるのかなって思ったりも一方でしてるんですよね。だからさっき言った『罪とバチ』って言うのは僕の中で思ってる因果応報教はむしろ、もしかしたら人間関係においてなのかなーなんてちょっと思ったりします。それに自然のそういう色んな事がね、絡まってくるから一筋縄ではいかないとは思うんだけど。基本は人間の、人間関係で絡まってるものじゃないかなーなんて思うんです。
 とするとですね。天災や疫病ってのはちょっと、ちょっと諦めがつくと言うかね。だってしょうがないじゃん、起こっちゃったんだから、みたいな。ところが戦争ってさっき言った人間関係の因果が積み重なって。うん、復讐とかね、行われてるじゃんっていう意味で言うと、ちょっと種類が違うんだなって事を山本豊津さんとの豊津徳【HozuTalk】をしてて豊津さんのお話を聞いていて気付いたっていう瞬間があるんですけど。それを本当に…いつだったっけ?6月くらいに話したのかな?それ話してからね、ずーっと、ずーっと、なんかその想いを僕は持ってるのかも知れないですね。その戦争って言ってるのはもっと内紛みたいな話でもいいし、喧嘩でもいいしね。誰々が好きだ、誰々が嫌いだみたいな。誰々に被害を受けたとか、誰々に攻撃してしまったとか。そういう様々な事だと思うんだけども。そういうのって、やっぱりそういう因果が巡るんだろうなーと思うと、どこかでね、断ち切るなんて事はずーっと、ずーっと、出来ないんでしょうね。どこかの国がどこかの国を嫌いだって言ってるのって、そのどこかの国がかつてそのどこかの国を責めたりしたから…って。で、その責めたってのは何代前だから自分は知らねーよって言っても、被害を受けた方は覚えてるわけですよね。うん。
 だからさっきの僕の知り合いの不幸みたいなのと、僕が…さっき言った知り合いの不幸と、ちょっと有名な方の不幸というものがなんかその因果じゃないかなって思ってるって話の集積がなんか今の国ね(笑) 庶民に対する復讐みたいなものともちょっと繋がってるしね。なんなら国同士の争い、ロシア、ウクライナみたいなものも…うん、にも通ずるね、なんかそんなものなんじゃないかなーなんて思っております。
 はい。なんか台風、皆さん気をつけましょう。自然災害ですから、これはもう如何ともし難いですし。はい。今日のICUCはこんな感じで終わりにしたいと思いまーす。

文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 嫌な事をされたとき意識的にお返しに行く事だってあるけど、逆のパターンでひとつ覚えてることがある。友人が何かを話してくれた時、私がそれをすごく笑ってしまって。その後、あの時笑ってくれたからすごく心が軽くなったと言ってもらえた。それ以後、この件は笑うか?深刻な顔するか?と迷ってしまうという新たな意識に苛まれていて。で、角田さんのお父さんのお話で、二言多いなら落語家になれるって話を思い出している。笑った事が一言目で、それをいい意味で届けられる様に二言目をどうしようか?だって失敗すると1つならまだしも2つも笑ったな!と大失敗になってしまうから。

 不謹慎な事を言う人には空気を読むことを忘れちゃう人と、読もうとしても読めない人と、読んだ上で不謹慎に言う人がいる。読めない人はしようがない。あまりに馬が合わないなら距離を取ってみればいい。でも意識的に言う人とはそれこそ意識的にしっかり距離を取る。
 その方には他意はなかったんだろうけど。他意がない場合が一番困る、他人も自分も。因果応報で返って来た時にただただ自分の不幸を嘆いて終わってしまう。省みられない限り因果は何度も巡って来る。せめて同じものが返ってくれれば反省ももう少し簡単なんだけど、一見関係ないものが返って来る。だから反省の意味があるのかも知れないけど。

 隔離されてる気分。引き篭もりの自分としてはやっぱりいつもと変わらなくて、宅内で何しようかな?だった。そんな風で苦にならない自分は結構幸せ者だと思わざるを得ない。そう出来る場所がある、まさに拠り所。そこが無いとか、壊れるとか、出て行かなきゃいけないって、考えるだけでもすごく不安だ。
 怪我などを考えなければ、日本の台風、特に関東だと外に出るだけなら全然出られる。でも出たらダメだよという経験によって出られない、というか出ない。出られるのに出ないってやっぱりちょっとだけ不安付きの閉塞感なんだなと思う。
 「渋谷で角田陽一郎と」で聞いた、角田さんがご両親との旅行中、泊まった旅館で大雪になって出られなくなった話。停電、寒い、エレベーターが止まる、暗い、食事を温められない、トイレがいつまで使えるか問題もあったって言ってたかな?結局、角田さんが外に出ることになるけど、それが今回の”民衆は飢餓には耐えられない”って話とちょっとリンクした。天災だろうと、一定以上の不安と飢えには代えられない。

 私も不謹慎な事はもう少し言ってもいい、というか、もう少し言う事に寛容になっていいと思う。その一言で傷付くことは当然増えてしまうと思うけど、日本人の除菌好きと同じで、綺麗にしすぎると免疫力が低くなってしまう(そのせいで花粉症患者が多いとも言われてるし)。不謹慎な事を言ってしまう機会が増えれば、言い過ぎると人と早く離れられるし、この人は自分が付き合いたい人か?もっと早く分かるはず。結果、人付き合いが楽になる部分があると思う。人を傷付けるべからずというのは日本人の良い真面目さで、放っておいてもどんどん煮詰めて行くと思うけど、煮詰まり過ぎて同調圧力になると、今度はその辺の塩梅の下手くそさが露呈する。相手を認めるってどういう事だっけ?と考え直す機会が必要かも知れない。
 HSPという言葉も繊細さんという言葉もすっかり広まり、プロフィール欄の定番文句になった。自己紹介が苦手な私はあの時どうしても言う事がなくて、ICUCの最初の自己紹介でHSPだと言い、角田さんは聞いた事がない単語だったようで、ノートに走り書きしていたのを覚えている。あれはその頃に友人としての付き合いが始まった人が、カウンセリングの勉強をし、実地練習として私をカウンセリングしてくれた時に言われた単語だった。
 で、言った事をすごく後悔した。私は繊細だとか傷付きやすい人だという表明ってどんな自意識なんだろう?その辺はコトブキさんの肩書き論で聞いてみたいなと思うけども、私としては妙な免罪符を振りかざしてるように思えてしまって、それですごく後悔している。
 もう1つずっと思っていたのは、ICUCってHSPの集まりだと思っていた、いい意味で。ちょっと無茶というか私的に勇気がいることを言っても大丈夫な場所、大丈夫な人達だという安心感があった。私にとってはICUCに触れたことは、長年崩していた自分のバランスが整う最後の大事な局面だった。(…から、今もこうして一番近くで聞きたいんだと思う。)バランスが整わなかった間はずっと人の誤りや不正に対して全く容認できなかった。不謹慎を聞き流せない人は、もしかしたら精神のバランスが崩れているのかも知れないと思っている。

 「LOVE TOGETHER」高橋幸宏さんが出演できるか?出演できるならどのくらいか?と、当日までずいぶん苦労されたと書いてあった。そんなメインの人が出ないコンサートがあるんだってことがすごい。開催する方もすごい、参加するお客さんも素敵だ。高橋幸宏さんという人と、その人の今に繋がる関係者まで含めての高橋さんのファンの方々の世界、いい世界だ。

 ざまみろとは思わないけど。私だったらどうだろう?例えばあの人とか…不幸があったら喜ぶ気がする。ざまみろと思う方がずっとマシだ。そんな風に考えていると、不幸を喜んでいる相手から因縁を付けられる気がして来た。結局、可哀想だけど因果応報かな?私も気をつけようと思って、いわゆる手放すということをする他ないんだろう。
 コルクの佐渡島さんがnoteで「他人は自分を写す鏡」と書いていて、すごく面白かった。それを踏まえると、角田さんに冷たい態度を取った人というのは、その人の冷たい態度という分人を角田さんが引き出した=冷たい態度が鏡に映ったということになる。で、佐渡島さんはそれは自分の上位資質の物差しだと書いてるけど(上位資質ってストレングス・ファインダーのことかな?)とすると、角田さんは人に対する態度、コミュニケーションに重点を置いて見る能力に長けているってことになる。(まさにプロデューサー向き!)まあ角田さんのことだからこの佐渡島さんの話はなんなら直接聞いた上での因果応報教だと思う。私は佐渡島さんと角田さんの話を聞いてみて、さて、自分はどんな教義を持つ因果応報教を持つかな?ってところが大事だ。

 先週の「歴史学者という病」を読書中。ちょっと虫食い的にも読んでみたけど、私にはすごく合っていて面白い。私はその人はどんな人?を日記的に書いてある本が好きなのかも知れない。読了してないけど「ドストエフスキーとの59の旅」も私的には同じジャンルになっている。
 で、本郷さんという方は私的にはお茶目で素直な面白いおじさんということにした。学者の研究の何たるかが全く分かっていないからそういう感想になってる気も十分するけど、いつか角田さんがインタビューするなんて事になったら、楽しみに拝聴させてもらうんだ。

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