『ゴールデンカムイ』と夏目漱石の『こころ』の関係ー「罪悪感」の主題
映画『ゴールデンカムイ』が傑作で、それ以来漫画の『ゴールデンカムイ』をちまちま読み返している。私は北海道を舞台にしたこの漫画がやたらめったら好きで、理屈を超えて読むたび胸がキュンとしてしまうのだが、あらためてなぜこの漫画が好きなのかを考えていた。
そして気づいたのだが、『ゴールデンカムイ』の主題とは何か、ひとことでいえばそれは「罪悪感」である。
そう、『ゴールデンカムイ』とは「罪悪感」の物語なのだ。
面白いのが、「罪悪感」とはこれまで日本近代文学の主題として扱われてきたテーマであることだ。
(※以下ネタバレあります!)
1 『こころ』と「生き残りの罪悪感」
たとえばあなたは夏目漱石の『こころ』を読んだことはあるだろうか?
国語の教科書で一部読んだことがある人も多いかもしれない。『こころ』は、三角関係の恋愛に悩んだ「先生」が友人を裏切って先に告白してしまい、その罪悪感から、結局時を経て「先生」は自殺してしまう、という物語である(そしてその話を「先生」は語り手の主人公に手紙で伝える、という構成になっている)。
なぜこんな、三角関係で悩んだ末に自殺するという物騒で暗い話が、高校国語の教科書に掲載され続けているのか?
――それは『こころ』が罪悪感の物語だからだ、という説がある。
くわしくは上のURLを読んでみてほしいが、野中潤先生いわく、『こころ』をはじめとして国語の教科書に掲載されやすい名作には、「“生き残り”として新たな生を模索する人物を肯定する」というパターンが見られる。そしてそれは、敗戦後の日本人が欲望する物語の基本パターンなのではないか、ということだ。
生き残りの罪悪感。その主題こそが『こころ』がこんなにも教科書に掲載され続ける理由である。
たしかに『こころ』は、友人Kの死を経て先生が生き残り、そして先生の死を経て主人公が生き残る話だ。そして常に生き残ったほうは、罪悪感を抱えて生きている。その罪悪感こそが、『こころ』という物語を支えている。
そしてそれは『こころ』に限った話ではない。『羅生門』も『舞姫』も『ノルウェイの森』も、「誰かの死に対して罪悪感を持ちながらも生き残る話」である。日本人はとにかく罪悪感というテーマが好きなのだ。
日本人は空気を読むし他人と同じでいたがる、とよく言われる。他人と自分の境界をつくるのが苦手で、他人と自分が同じであることに安心する。だからこそ「死」という究極の境界が他人と自分を分けた時、混乱して、罪悪感を覚えてしまうのだろう。――あなたとぼくは、同じであるはずなのに、自分だけが生き残ってしまった。それが日本人に「罪悪感」の物語を描かせ続ける。
そしてその感覚は、戦争や災害が起こった時、より顕著になる。
2 なぜ『ゴールデンカムイ』の金塊は、あの結末だったのか?
『こころ』の物語を思い返してみると、『ゴールデンカムイ』に似たような話があったことを思い出さないだろうか?
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