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岡崎から視る「どうする家康」⑧「静岡帰りの家康」が見る岡崎

師・雪斎の存在


静岡で、家康は誰から教わったのでしょうか。しばしばいわれるのが、雪斎(太原雪斎・太原崇孚)の存在です。静岡から建仁寺で学んだ僧侶で、今川のブレーンです。

「雪斎が家康を教育した」と言う話で、当時の静岡で最高の知識人ですが、同時に当時国内トップクラスの知性です。家康の幼少時に雪斎は静岡には不在多いとの指摘もありますが、学校の校長みたいなものです。実際に教えているのは臨済寺(トップ画像)の僧侶ではないでしょうか。それでも雪斎の影響は大きいと思います。

40年前の「徳川家康」では、小林桂樹さん演じる雪斎が家康に「論語」を教えていてちょっとした感動シーンです。八千草薫さんが祖母華陽院を演じています。内容は『論語』顔淵第十二です。

子貢問政。子曰、足食、足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵。子貢曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死。民無信不立。

白文

子貢、政を問う。子曰く、食を足らし、兵を足らし、民之を信ず。子貢曰く、必ず已むを得えずして去さらば、斯の三者に於いて何をか先にせん。曰く、兵を去らん。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何をか先にせん。曰く、食を去らん。古より皆死有り、民、信無くんば立たず。

書下文

ちなみに「中国屋」として読むと中国での解説との相違点がツッコミどころ満載なので、また別稿を用意したいところです。

臨済寺には「手習いの間」もあるそうです。

40年前に演じた滝田栄さんは臨済寺での体験が非常に印象深かったようです。しかし、私からすると禅寺での我慢体験を静岡での家康のイメージとするのは全く違うと思います。


今川での統治システム・今川仮名目録


静岡で禅寺・臨済寺での講義以外には家康は何を学んできているのでしょうか。注目されるのは今川には「今川仮名目録」という分国法があった点です。

分国法は戦国大名が分国内での訴訟の公平性を確保するために制定した法令、とされます。(静岡県条例は例えにはちょっと不適当と思います。)今川仮名目録は東国初で1526年に成立しています。統治システムが早期にできています

家康の静岡在住当時1553年(天文22年)に今川義元が「追加21条」を出しています。この作成者が雪斎なのです

この今川の統治を実地で見ている点で、家康には「今川モデル」が念頭にあったように思います。

一般的に室町幕府から「守護」として認定されているのが、「守護大名」と歴史的には呼び、今川は守護ですが、松平氏は幕府から認められた三河の「守護」ではありません。「代行」の「守護代」ですらありません。

守護大名から戦国大名への発展は「農民の直接統治」と「守護不入の荘園領を認めない」こと、そして「幕府の指示を受けず分国法による領国支配」という3点の違いとされます。

「守護不入の荘園領を認めない」のは今でいうと、「税務署の調査が入らない特権、要するに非課税特権を認めない」ということです。これは今川仮名目録追加21条にあります。もとは守護大名が有力寺院などで特権を認めていました。これを今川の守護としての実力と臨済宗の権威で押し切った感があります。

「今川モデル」の影響と一向一揆


今川での統治を実地で見てきた家康にとって、岡崎は統治システムが「全然なっていない」感じにしか映りません。しかも松平は守護代ですらないので、岡崎に帰り「これじゃダメ」を惨めなぐらいに感じたかもしれません。

今で例えると、有名大学卒業し、一流企業を経験してMBA(経営管理修士)を取得している感じです。それが田舎の実家の中小企業に帰ってきて、見てみたら「これじゃダメ」と感じるでしょう。

私が思いだしたのが「家具屋姫」こと大塚久美子さん。

埼玉県のタンス屋(大塚家具)の娘ですが、白百合から一橋大学経済学部卒業し、富士銀行(みずほ銀行)入行。経済での国内トップ教育を受け、大手都市銀行でのノウハウも見ています。その後実家に帰って、大塚家具を個人商店から上場企業にしています。しかも筑波大学法科大学院でも学ばれています。経営者の知的条件としてこれ以上無いレベルです。彼女のインタビューの発言が面白いです。

周囲の空気に流されず、どう生きるかを意識して行動していくことが肝心だと思います。・・・しがらみに縛られずに考えてみたら、それまでとは違った方向性が見えてくるのではないでしょうか。

彼女が実家に帰って「これじゃダメ」を周囲との軋轢の中、たった一人で次々に改革してきた姿が思い浮かびます。そして見事に近代化してきた。
しかし、彼女の経営する「大塚家具」はどうなったのでしょう。

若い家康も「先進的な今川モデル」を見てきて、岡崎メンバーたちの統治の「まあまあ・ナアナア」にイライラしたのかもしれません。

その実例が、今でいう非課税特権。「今川仮名目録」には「守護不入の荘園領を認めない」があります。しかし、岡崎では父・広忠の代から一向宗の寺々に「守護不入=非課税」としてきました。

家康は学んできた「今川モデル」しか頭にないので「今川ではこうじゃなかった。あり得ない。」「松平が守護じゃないから舐められている。」「これを認めたままでは示しがつかない。」という焦りが強く出てきたのではないでしょうか。

しかも「無学だった父や祖父と違ってオレはエリート教育を受けてきた。静岡ではこうじゃない。岡崎の今までのやり方はダメだ。」という自負・自信もあったと想像します。

この若い家康を副市長・酒井忠次や総合政策部長・石川数正が、オロオロするのか、諌言するのか、止めに入るのか。ここは本来は注目ですが、このシーンあるかどうかわかりませんがあったら面白いです。

例えば市長が「自分だけの政策」を反対を押し切って進めるのを副市長や総合政策部長は黙ってたり、ご無理ごもっともなのでしょうか。くれぐれも岡崎市の実例は想像しないで下さい。フッ。

NHKの地方局での二人の抱負です。

そうはいっても、家康自身も法蔵寺(浄土宗・岡崎市本宿)など自分と近い浄土宗寺院等には自分で桶狭間後に特権を認めているので一向宗からすると「ふざけんな」と言う言い分はあるとは思います。

法蔵寺は岡崎市本宿にある「家康公ゆかりの草紙かけ松・おてならい井戸・お手植えの桜」などがある郊外の静かなお寺です。名鉄本宿駅から歩いてスグです。ただ、イジワルと言うわけではないですが、法蔵寺も家康が非課税特権くれたからこそ、こうしたヨイショは当然でしょう。

一向一揆の背景にこうした家康の「若気の至り」の面もあるように感じます。この「若気の至り」は、こうした岡崎から視ると、遠い昔の500年前の歴史ドラマではない妙なリアルさを感じてしまいます。NHKで「宗教法人の非課税」などはとてもではないですが、ドラマであっても放映できません。ただ、実際のところの事情はそんな感じです。

ちなみに、40年前の大河ドラマ「徳川家康」で音楽を担当したのはシンセサイザーの先駆者・冨田勲さんです。冨田勲さんは故郷岡崎市出身と言うことで、当時かなり力が入っていたそうです。実家がこの法蔵寺のとなりにある冨田病院です。40年前の大河をオンデマンドで見た方で、観光で来られた方も当時の先駆的な冨田勲さんのシンセサイザーを思いだしていただけたらと思います。











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