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母の狂気。

唐突だけど、わたしの小中学生の頃のコンプレックスは
1.長女である
2.天パである
3.母親が変(ヘン)
ということだった。
 
いまとなっては「病的なシスコン」の自分だけど、四国は愛媛の片田舎で過ごす小中学校時代は、兄姉が欲しくてたまらなかった。
友人の垢抜けたヤンキーのお姉さんを見る度に、「あんなカッコイイおねいさんが居たらなぁ…!」と思ったものである。
だけどそんな長女コンプレックスよりも、毎日ドライヤーとの格闘を強いられたガンコなくせ毛よりもなによりも、母親の風変わり具合は偉大であった。
 
うちは三姉妹だが、母は息子が欲しかった。なので母は三姉妹それぞれの学年で「推し」の男子を見つけ、授業参観や運動会のたびに、娘そっちのけで追いかけ回しては写真を撮りまくっていた。好きでもない男子のぎこちないピース写真が、自宅のアルバムに大量に保管されているという恥ずかしさは、当時誰にもいえなかったものである。

またある時は、母が里親制度でオス猫をもらってきたのだが、娘たちを差し置いて、勝手に「ペニ」と名付けていた。さらに妹が友人からプレゼントされたクマのぬいぐるみにも勝手に「ポコ」と名付けた。20年の時を経て、妹が今でも大事にするそのぬいぐるみは、身内で「ポコくん」と呼ばれている。

名付けで思い出したが、自分の名前が嫌いな母親は、いくつかの名前を操ってもいた。
美容室や化粧品カウンターなど、いろんなところから見知らぬ女性の名前のダイレクトメールが郵便受けによく入っていて、「お母さん、今度は○○になったんだ…。」と、なんとも言えない気持ちになっていた。

当時わたしたちも、事件の起こった愛媛県の松山に住んでいたので、小学2年生ごろまで「もしかしたら母親は、偽名で逃亡を続けている福田和子なのかもしれない」という疑心に苛まれていた。

母は強迫神経症でもあったので、数字や慣習にルールがあった。例えば、毎夕食の「いただきます」は時間を変えて2回、入学式や卒業式の写真撮影は、日をまたいで2回ずつやり直しさせられる。母の嫌いな色や文字や数字は、決して口にしてはいけない。

規則性があるようで無いような、無数に埋まっているその地雷を踏まないよう、わたしたち姉妹は最新の注意を払って生活していた。

母親はおっとりアニメ声なので、他所の家からは「本当に穏やかなお母さんね」とたびたび言われたけれど、その正体は我が家の絶対君主・ハハジョンイル。
父親と別居後はさらにドライブがかかり、この世間知らずでお嬢上がりのメルヘンサイキッカーが次は何を言い出すかと、娘たちは日々戦々恐々であった。

 
そんな母が、ある日を境に踊り狂うようになった。
突然の爆音に驚いて、自室の2階から台所に降りると、母親がラジカセ(古)でプリンスをかけ、シャウトしていた。
その日から来る日も来る日も、包丁やおたまを持ったまま腰をひねりまくり、洗濯物を振り回し、娘が自宅の固定電話で電話していても容赦無くボリュームをあげて踊りまくるようになった。

「うふふ、ママ、音楽に反応しちゃって止まらないのよねぇ。」。そう言って、来る日も来る日もシラフで踊り続けていた。
 
思春期の娘たちにとって最も恐るべきは、そんな母の奇行が周囲に広くバレてしまうことだが、最も危惧すべきイベントが運動会であった。
運動会当日、競技や入退場のBGMで踊り狂う母に、「ここはラテンの国じゃないから!(涙)」と小学生の妹たちは泣いて嫌がっていた。
「ママが楽しいと思えることなんて、これだけなのよ」と腰をひねりまくる母から少し離れて、「シュールだなぁ…。」と秋空にはためく万国旗を見上げた。ここがスペインとかなら、妹たちは泣かなくて済んだのだろうか…。
 
中学2年生のある日の夕方、当時親に内緒で付き合っていた、髪がオレンジ色のヤンキー彼氏と、特に行くところもないので近所のスーパーをぶらついていた時のこと。売り場をうろついていると、Jポップのインストを死ねるほどチープにした有線に、ノリにノッてる人の姿があった。
 
一瞬で母だと確信し、来た道を一目散に逆走するわたしを不思議に思って、わたしの名前を呼ぶ彼氏。呼ぶんじゃねぇと横目で牽制するも、時すでに遅し。後ろから母親の怒声が聞こえる。「あんた目立つんだから、悪いこと出来ないんだからね!」…ショッピングセンターで、異様に目立つ母を先に発見したのはわたしである…。

それから数年の間に、離婚や父の死など家庭内でたくさんのゴタゴタがあり、母親は狂気を使い果したかのように消耗していった。そしていつしか、母親が踊り狂うことは無くなった。

その後、田舎から別の地に移り住み、子は親元を離れ、母はいつのまにか「他所の家から見たまんま」の本当に穏やかな母親になっていった。
自分の歳を気にしたり、よく昔の話をするようになった。毎年ひと回りずつ小さくなったように感じる母の姿に、ハハジョンイルの面影はもう感じられなくなっていった。
 
先日、小・中学時代に通った個人塾の恩師と、わたしたち三姉妹で14年ぶりの再会を祝して居酒屋で飲んでいた。昔話にひとしきり花を咲かせた後、妹たちがさみしそうな顔で言った。
「お母さん、踊らなくなったじゃん。踊ってた時は本当に嫌で泣いてたんだけど、今になって思うと、なんで嫌がったんだろう、もっと自由に踊ってって言えたらよかったって最近思うんだよね。」
「うん、今なら思いきり踊ってって思うよ。」 
 
すかさず「いや、じゅうぶん自由に踊ってたから大丈夫やで」と言いそうになったけれど、妹たちの言葉にはそれ以上の思いがあるんだと理解した。本当に心の優しい妹たちである…(シスコン)。
 
その夜母親から久しぶりに電話がかかってきた。用件が終わり、電話を切ろうとする時、今日のことを話そうか、と一瞬考えた。
「お母さんってさ…」
「なぁ〜に?」(アニメ声)
最近、踊ってるの?何か今、好きなことある?と聞こうとしたけど、思いが先行して緊張してしまい、適当に話題を変えて、電話を切った。
 
わたしが小中学生の頃、「女子グループ」にありがちな友人関係で悩んでると、母は決まってこう言った。「ママは友だちがひとりも居たことがないから、誰とも群れたことがないし、誰にも相談せず、ずーっとひとりでやってきたのよ。そんなくだらないことで悩んだことない」。
当時は、「そんなアドバイスあるかよ」と思っていたけれど、あとになって、母は小学校低学年の頃に教師からひどいいじめに遭ったことをきっかけに不登校を繰り返すようになったことを知った。

母が「母」になった時には、彼女の中ですでに大きな傷があって、わたしたち姉妹にはどうすることもできなかった。

元々、自意識と好奇心が人一倍旺盛な母が叶えられなかった夢、思うようにいかなかった結婚生活。娘三人をひとりで育てるプレッシャー。

過去の傷を治したい、挽回したいという想いが強くなるほど、母は空回っていった。やり場のないエネルギーをこじらせ、結果その傷をなぞるように、年々強迫神経症を悪化させ、もがくように生きる母をわたしたち姉妹は見ていた。

今ならわかる。飼い猫に変な名前をつけるのも、狂ったように踊りまくるのも、ぜんぶ母の「狂気の発露」だったんだ。
 
最近よく思う。自分の中に狂気を持っていること、それはとても強く美しいことなのだと。やり場のないエネルギー、変えようとしても変えられない、業のようなもの。誰もが自身の内側に秘めている、その人たらしめている理由。 
そして「自分という狂気に耐える」「自分ひとりでその狂気と向き合う」、そのの苦しさと難しさを思う。

喜びや悲しみ、寂しさ、懐かしさという思念を、人はなかなか自分ひとりで抱きしめることが出来ない。幸か不幸か、今はそれらを容易くSNSに撒きちらかし、共感や承認を集めることが出来る。

わたしなんか特にそうだ。自らの狂気を、承認欲求を満たす道具のように扱ってしまい、それによって時々、自身をとても薄っぺらく安っぽく感じる瞬間がある。撒き餌にした自分の狂気に復讐されている。
 
お母さんの狂気は、誰にも理解されないけれど、とても尊く美しいものだと、娘は思っているよ。
何をやってもいいから、あの頃のように自分の狂気を救いあげて、自信満々に突き進んで欲しい。どうか、自分にため息をつかないで。
 
だけど、その狂気だって、気力と体力があってこそなんだろう。狂気は有限なのだ。

そんな娘のわがままは今さら伝えない方がいいのかもしれないと思って、今日の電話でも、何も言えなかった。
 

#キナリ杯

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