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「好き」と「大切」がわかる人。

「人間て、“自分ひとりの力で生きてる”と思ってる人間か、“周りに生かされている”と思ってる人間か、大きく分けてそのふたつなんですよ。“周りに生かされている”と本気で思っている人は浮気しないですよね。」
「パートナーって最悪の状況からギリギリのところで救ってくれる存在じゃないですか。どんなに追い込まれてても、一緒に寝るだけで救われる時ってあるじゃないですか。そんな人にはやっぱり笑ってて欲しいし、傷ついている顔なんて見たくないですよ。」

わたしの心の師匠としている仙人のような整体師がその言葉を聞いて思ったのは、「ひとを好きになる」と「ひとを大切する」は違うんだなということだった。

「好き」だけで恋は出来る。だけどそこからお互いに「大切」と思いあえる関係にシフトしていかないと、人と人との関係は続かない。

恋愛中は「彼はわたしのことを好きなのかどうなのか」と悩みがちだけど、「好かれて」はいるものの「大切」にされていないケースはよくある。

過去を省みると「なるほど当時の彼は、わたしのこと好きは好きだったんだろうけど、大切だとは思っていなかったのだな」と、悲しいが合点がいく。

自分以外の誰かのことを「好き」だけではなく、「大切」と思える人はそんなに多くない。

というよりも、自分をそんなにも思ってくれる人は、自分が考えていた以上に多くなかったのだなぁとしみじみ思ったのである。もちろん「モテ」とは別次元の話。

「好き」と「大切」の違いは「対相手」の話だけでなく、「対自分自身」にも同じことが言える。

「自分が好き」なことと、「自分が大切」なことは似てるようで違う。むしろ自分が好き過ぎると、「自分を大切にする」ということからは遠ざかってしまう。

それは、自己愛から自分に求めれば求めるほど「満足」することが出来なくて、その渇望感が満たされなさを生むからだ。わかりやすい「強欲な人」ばかりではなく、完璧主義な人はその傾向があると思う。

強い自己愛を持つ有名人が、名声や栄光の陰で自暴自棄なプライベートを送っていることは、時々耳にする。

以前親しくしていた人にそういう人が居たのだけど、その根深さに「これが業というものか」と思った。

「好き」が「大切」に変わる時は、「恋」が「愛」に変わる時だと思う。

対自分にしてもそう。
自分に「もっともっと」「〜しなければならない、するべきだ」と求めることを止めて、今の自分を受け入れて、赦せるようになったら、「自分を大切にすること、愛すること」ができるようになるんだろう。

思えば20代は、欲望に疲れては愛を求め、愛から逃げては欲に走る、壊れた振り子時計のような日々だった。

そのせいで傷つき傷つけ、散々血反吐を吐いたけれど、人の心のクセはなかなか変えられない。少しは「大切」がわかる人間になれただろうか。

30代は周りの人と自分を労わり、大切なものを見失わないようにしたい。


この記事は、以前投稿した記事をリライトしたものです。

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