銭湯 【2000字のホラー】


 銭湯? 銭湯かい?
 このあたりには、もうありゃしないよ。ちょっと前まではあったんだけどね。一件か、二件か、それくらいは。そこも少し前に閉めちまったね。両方ともね。去年だったかね。
 若いのに、銭湯を探してるって? 変わってるね。学生さん? 今時の学生さんはあれでしょう、こぎれいなワンルームマンションなんかに住んでるんでしょう。もちろん風呂付の。銭湯なんか行く必要ないじゃないの。昔は、学生さんむけの下宿屋がたくさんあったんだよ。風呂なんかついてないよ。トイレだって共用。信じられないでしょう。洗面所もね、共用。そういう下宿屋がたくさんあって、銭湯もあったねえ。あっちにも、こっちにも。高い煙突が立っててさ。もくもく黒い煙が出てたもんだよ。風向きによっては煤が飛んでくるんでね。洗濯物を干すときは煙突を見上げて、煙の向きを確認したりしたね。
 まだどこかにあったかなあ。銭湯、銭湯。やっぱりないね。みんなやめちまったよ。通りの向こうにも大きいのがあったけどね。そういえば、いつなくなったんだろう。覚えてないけど、今はないねえ。あそこは大きかったなあ。このあたりじゃ一番大きかったね。
 なかなかいいもんだったね。銭湯っていうのは。あの、音が響くでしょう。桶をおいたりする音が、かこーん、ってね。人の話声なんかも、なんか柔らかくなってね。壁の絵は富士山じゃなかったな。わたしが覚えているのは。なぜだかね、熱帯魚だったよ。高い天井にね、湯気がたまってね、ぼんやりぼやけてるんだよ。熱帯魚がね。それがまたよかったな。湯舟につかりながら眺めるのが。もわっとした湯気の中で熱帯魚がゆらゆら泳いでるみたいでね。
 ああ、そういえば、テレビでやってたよ。最近、若い人の間で銭湯がちょっとブームだって。あんたもその口かい? なんでだろうねえ。ほかにあるでしょうが。もっといろんな設備のある、スーパー銭湯とかいう。あ、そうだ。ちょっと歩けば後楽園だよ。大きい温泉があるでしょ。サウナとか、中にレストランまであるんでしょ。朝までやってるんじゃないの? 
 違う? そういうのじゃなくて、街の銭湯。変わった人だね。爺さん婆さんが行くところだよ。そう、年寄りには、楽しみだったんだよね。だいたい四時とか、早いところは三時にあくんでね、洗い桶抱えた年寄りが前で待ってたもんだよ。がらがらって、引き戸が開いてね。主がのれんを出してね。ほらあの、定番ののれんね。で、入ると左右に分かれてね。それぞれ男湯、女湯って、のれんがね。そういうところがいいんだね。でもねえ、もうないよ。このあたりには。
 変な人だね。こんな夜更けに、桶なんか抱えて。昭和のフォークソングじゃあるまいし。おや。髪が濡れてるね。もう一風呂浴びてきたみたいじゃないの。馬鹿だね。冷えちゃうじゃない、体が。
 風呂に入った? このあたりで? 忘れ物を取りに戻ってきたって? やだね。酔っぱらってるんじゃないの? 確かに入った? おかしなことを言うね。でも髪は濡れてるし、酔ってるようにも見えないねえ。熱帯魚だったって? 壁の絵が? へえ。男湯も同じだったんだね。黄色い洗面器が積んであった? 底に「ケロリン」って書いてあった? そりゃまたずいぶん細かいところまで覚えているね。いつまでも湯舟につかってる爺さんがいたって? 隣のおじさんがかぶる湯が飛んできたって? 女湯のほうから桶を置く音がしたって? ああ。かこーん、って、いい音だよね。
 でもね、もうこのあたりに銭湯はないって。ほら、あそこ、ちょうど電灯がついてるから、見えるでしょ。タイルの壁にツタがはってるだろ。あそこがこのあたりじゃ最後の一件だったんだよ。ああ。岩も屋根も残ってるね。立派な屋根が。雑草だらけになっちゃったけど。まだ閉めてから一年ぐらいだけどねえ。後継者がいなかったらしいよ。楽な仕事じゃないし、燃料費も上がってたしねえ。頑張ってたんだけどね。楽しみにしてる爺さん婆さんがいるからって。踏ん張りきれなかったんだねえ。
 おやまあ。震えてるじゃないの。言わんこっちゃない。やっぱり冷えちまったんだろう。早く帰りなさいよ。勘違いだよ、ここで風呂に入れるわけがないでしょう。ほら、見てごらんよ。もう廃墟だよ。あら、昔のポスターがそのまんまだね。曇りガラスが汚れちゃって。そういえば、最近は見かけないね。こういう曇りガラス。中は真っ暗だよ。もうずいぶん前からね。真っ暗だよ。今どうなってるんだろうね。熱帯魚、まだ残っているのかね。乾いて、干上がってるんだろうねえ。
 おや。音がしたね。かこーん、って、聞こえたかい? いい音だね。
 じゃあ、あたしはもう行くよ。あんたも早く帰りな。顔色が悪いよ。気をつけてお帰りよ。
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