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母ではない”私”

 子どもらがそれぞれ小学校、幼稚園に行くようになったので、数年ぶりに毎日一人になれる時間が作れるようになった。

 この素晴らしさ、どう表現すれば伝わるであろう?母でも、妻でもない、”私”になれるとでも言おうか?

 秦野に暮らしていた頃のつながりで知り合った方のおかげで、横浜市のいろんな居場所を知り、どこに行っても「〇〇さんの紹介で〜」と言えば話もスムーズで、とてもありがたいことだなと思っている。
 そこからのつながりの、そのまたつながりで知った場所にも足を運び、今、久しぶりに人との出会いって楽しかったんだなと思い出している。

 先週は二つの居場所に行ってきた。トーキョーコーヒーさんの拠点の一つに行き、その翌日にはベビーマッサージを主にやっている方のカフェに行ってきた。
 子育てをしてきた方のアドバイス、それも、自分の子しか知らない人の、親切心であるのはよく分かるのだけれど、相手への想像力と配慮に欠けたところのあるアドバイスではないお話に、自分の悩みを受け止めてもらえたと感じた。

 トーキョーコーヒーについては、以下が公式のリンク↓ 

 私の息子は、登校拒否ではない。でも、トーキョーコーヒーの集まりに参加されていた皆さんは、「登校拒否じゃないなら平気でしょ」という風ではなく、ちゃんと話を聞いてくれたし、ご経験も丁寧に教えてくれた。

 居心地が良かった。そして思った。
 なんでこれだけ子どもたちのことを考えて頑張っている人たちが、近所の人にお子さんのことを責められたり、先生にお子さんの問題点ばかり指摘されたり、あるいは、一見問題がないように見えるため、お子さん本人は苦しんでいるのにちゃんと話を聞いてもらえなかったりするんだろう。
 そのことに傷ついた。

 もう一つのカフェは、住宅街のなんということのない一角にある。でも、すぐ分かった。というのも、保育園の子どもたちを載せたカートが二台、その前に止まって、立ち話をしていたからだった。お店の方と話していた保育士さんたちとすれ違ったとき、「(お店の方が)いたから、つい話しちゃった」と楽しげに話していた。

 お店には、店主のAさんと常連のお客さんがいて、保育園の子どもたちを見送ったあとすぐ現れた私を、二人でにこにこ迎え入れてくれた。カウンター二席、テーブル二席くらいの本当に小さなカフェなのだが、階段やカウンター脇に春の絵本が置いてあって、その中に私の好きな舘野鴻さんの絵本もあった。

 小さなことだが、そこが良い場所なのだと分かる瞬間というのがある。振り返ると、あの日はそれがいくつもあったように思う。

 店主のAさんも、私より子育て経験の面では先輩なのだが、先輩風を吹かすことなく、私の話を聞いてくれた。単に相性が良かっただけかもしれないが、Aさんのおかげで人と関わるって楽しいことだったとちゃんと思い出せた。

 Aさんは、話してくれた。子どもの好きな場所に行くのではなく、母親が好きな場所に行くことについて。身近なつながりがなく悩んでいたママが、自分の好きな場所で自分の子と同じ年代の子を持つ人と知り合って、いきいき暮らしているそうだ。Aさん自身も、”ママ友”ではなく自分自身の友だちを作っているそうだ。
 私も前はそうだった、と思った。昔は考えなくても飛べたキキの心境である。

 恨み言になるが、働いていない限り、子どもが幼稚園などに入園するまで基本的に家庭で二十四時間みなければならない生活を、私は親の人権侵害くらいに思っている。私には二人子どもがいるので、その生活が約八年続いた。安心できる場にいるときは、それでも堪えられた。環境が変わって、周囲が敵か味方か分からない場に放り出された途端、二十四時間の子育ては耐え難いものになってしまった。
 私は、これを忘れたくない。というか、絶対に忘れない。この生活がもう少し続いたら、まともに考えることができなくなって、子育てで苦しんでいる人に「私も苦しんだんだから、あなたも苦しみなさい」と言ったかもしれない。それくらい恨みに思っている。

 子育ては、間違いなく素晴らしい。子育てを通して親友を得たし、ケアについて知ることができた。楽しい経験がたくさんある。厄介なのは、その舞台裏が苦しいことだ。
 そして、それは、同じ子育て経験を経た人なら分かるという類のことでもない。一人として同じ人間がいないように、一つとして同じ子育てはないのだ。

 ひきこもりのお子さんがいる方の言葉が、心に刺さっている。その方のお子さんは、小学校の途中から通級になったそうだ。それも、もう何年も前のことであるが、その方は言っていた。
「今でも、普通級のお母さんたち嫌だもん」
 それを聞いて、私は決意した。この方に「嫌だもん」と言われるお母さんにはなるまい。
 その方を完全に理解できる、ということはあり得ない。でも、知りたい。知る努力をしたい。

 ともあれ、自分の暗黒の子育て期は脱した。少し距離を置いて考えられる。渦中でないこと、これはものを考えるときの絶対条件であると思う。渦中にできることは、ひたすらに記録することだけで、その記録を省みるのは未来の自分なのだ。

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