友人の勧めでnoteをはじめて、もうすぐ一ヶ月。 書くのが好きな私に、noteという場は、とても合っているなと感じている。 ここにきて、自分の振り返りも兼ねて、自己紹介を書いてみたくなった。 私は、どんな人間なんだろう。 皆さんへ 改めまして、こんにちは。 それぞれのいろんな人生を一所懸命に生きている皆さんの言葉に、おかげさまで勇気づけられています。 そして「スキ」という文化が、とても良いなと思っています。 読んでもらったことが分かり、そう思うと言葉に責任を持つことに、身
子どもらがそれぞれ小学校、幼稚園に行くようになったので、数年ぶりに毎日一人になれる時間が作れるようになった。 この素晴らしさ、どう表現すれば伝わるであろう?母でも、妻でもない、”私”になれるとでも言おうか? 秦野に暮らしていた頃のつながりで知り合った方のおかげで、横浜市のいろんな居場所を知り、どこに行っても「〇〇さんの紹介で〜」と言えば話もスムーズで、とてもありがたいことだなと思っている。 そこからのつながりの、そのまたつながりで知った場所にも足を運び、今、久しぶ
"母"という言葉を解体するアートプロジェクトに縁あって関わることになり、アーティストやリサーチャーの方はじめ、多くの方の想い、そして思いやりに触れた半年を過ごした。 その過程が一冊の本にまとまり、昨日、座談会の席で頂いた。 読んで、嗚咽した。 子育ての辛さは、今までにもいろんな方に受け止めて頂いたので、そういう意味では私は不幸ではなかった。でも、アートに関わるというそのために子どもと離れること、それは誰かに「良いと思う」と言われたからといって、"真に良い"ことにはならな
なんの診断も受けていないが、私は腹痛持ちである。最近はそうでもないが、一ヶ月に一回は腹痛と下痢で苦しんできた。 昨年は、夫が適応障害で休職したり、子が近所の人に苦情を言われたり、いろいろ気苦労の多い一年だった。それで、私も食べれなくなったり、身だしなみを整えられなくなったりして、外の世界と距離をおいて生活していた。 ストレスで食べてしまう方だったのが、すっかり食べれなくなり、でもそれが良かったのか、無理しないで休み休み暮らしていく中で腹痛はあまり起きなくなった。 それが、
自分の言動に、あとで「しまった!」と思うことがある。 子育てを経験し、思う。子どもが多様な成長過程を辿るゆえに、親は、真逆の事柄に一喜一憂する。たとえば、上の子は全然食べなかったのでガリガリに痩せていることが心配だったのに、下の子は食べすぎてプクプクに太っていることが心配、というように。 なので、子どもたちの親との会話には、神経を使う。思いがけず、私の発言で傷つけてしまうかもしれないと思うから。 ウチの三歳児のプレ保育のクラスメイトで、身体にプロテクターを着けている子がい
私は、執念深い。怒りを覚えた出来事は、そう簡単に忘れない。 怒りは、早く解消したほうが良いと言われれば、私個人の心身の健康のためにはそうなのだが、自分の大事な部分に関わる怒りをそう簡単に忘れてやるものかと思ってしまう。 私の怒りは、多くの場合、排他的な行いを見たり、聞いたり、受けたりした場合に起こる。 たとえば、その昔、私は、とある文芸サークルに所属していたのだが、ある出来事をきっかけに失望して辞めてしまった。 部員が小説を書いてきて、全員で合評し、作家の先生が
気持ちが、くすぶっている。 子どもは大事だが、朝から晩まで絶え間なく、単身でいるときの半分も”考える”ことができない状況が耐え難い。”考える”ことは、自分が自分であることの証明だった。今、”自分”は、絶え間ない他者(子ども)からの要求にさらされて、それを解決する存在となって、”考える”ことをやめてしまった。 今は、多くの人が発信できる世の中なので、子育て(乳児から幼児)が、いかに配慮を必要とする仕事か、やったことがなくても想像できる人は多くなったんじゃないかと思う。
某アーティストの”母”テーマの作品制作に参加したことで、身近なコミュニティ以外の”母”仲間ができた。その仲間たちと、昨日、北鎌倉の建長寺にある虫塚を見に行った。 「好き」をベースに集まっている集団は、心地よい。それが、”アート”の場合、正解がないから、間違いもないわけで、否定されることのない自由が保証されている。感じたことをアートに託してそのまま話してしまっても大丈夫という安心感がある。 虫塚は、昆虫好きで知られる養老孟司さんが虫供養のために作ったもので、隈研吾さんの
先週、学校カウンセラーの先生と、こんな話をした。 「自分で、”ここまで”とするしかないですからね」 飲み会の断り方を例に、先生は話してくれた。 たとえば、いつもなら誘われれば付き合うけれど、そういう気分でないときもある。そんなとき、自身をよく理解している人は、無理せず、自分の今日の距離感は”ここ”と線引し、適当に言い訳して断る。 つまり、距離を計ることを他人に期待するのでなく、自分で決めるということだ。なぜなら、自分のことは自分しか分からないから。 「”こういう付き合
2024年がはじまって、早17日。今年やりたい10のことを書いて以降、時間がなくてnoteを書けずにいた。 子育てを振り返るため、自分に向き合うためはじめたnoteだったが、PMS(月経前症候群)期を除けば、精神状態が落ち着いてきたからか、最近は書かないでも過ごせていた。 能登半島地震など、辛いことの多い世の中、家族そろって生きていることが奇跡だと思う。そう感じている人も多いのではないだろうか? 一方で、それがいつ失われてもおかしくないことを、災害や戦争などのニュ
あまり予定は立てないことにしている いきなりタイトルに反するが、あまり予定を立てすぎないようにしている。というのも、子どもたちがいるから。 子どもが小さいと、予定通り動くのは至難の業である。やろうと思ったら、その予定をこなすための入念な準備が必要になる。 私がもし単身だったら、朝、最低限、洗濯と飯と身支度だけ済めば、 家を出られる。が、子が二人いるので、彼らにも飯と身支度はさせねばならない。すんなり済めばいいが、上の子は時間の観念がなく、下の三歳児は話が通じ
新年最初の読書に張愛玲の『傾城の恋』を選んだ。 舞台は太平洋戦争勃発直前の上海と香港で、主人公の白流蘇(パイリウスー)は、良家のお嬢様だが、実家は没落しており、兄嫁たちにはいじめられる日々だ。出戻りのリウスーは、嫁ぐか妾になるしか道のない社会において、絶望の淵に立たされている。 そこへイギリス華僑の范柳原(ファンリュウアン)が、妹の見合い相手として現れるのだが、リュウアンはリウスーを気に入り、結婚はせずに自分のものにしようと駆け引きをはじめる。 ※完全にネタバレする
"書く"とき、自分がどう在りたいか、に嫌でも向き合うことになる。 noteを読んでいると、情報提供という種類のものから、感想、アートまで、あらゆる文章を目にする。"書く"には、それぞれの目的に合わせた再構築が行われて面白い。 私は、子育てしている当事者として、主に日常の出来事とそれに対する思いを書いてきた。書き手の私の中にはネガティブな思いがたくさん渦巻いていることが多いのだが、読み手の私は、あまりそれを好まない。不安や心配を人に伝染させたくないし、そうした思いだけ
上の記事を書いてから二日、やっぱり根本的には我慢しているので、しんどくなってきた本日。外に出たい。五分でいいから散歩してきたい……。 そんなわけで、家事を放棄し、子どもをYou Tube漬けにして、心の整理のためにnoteに向かっている。子どもに向き合うのは、実に忍耐を要する……。 昨日、友人が勤務しているカフェのチラシ折り(という名目で)お宅に呼んでくれたので、「行く!!」と四日ぶりに外に出た。わずか一時間弱の滞在であったが、大好きな友人とその息子に会え、ものすごく
下の子が、基本パジャマで暮らしている。私はさすがに着替えているが、外に出ないので、子は…まあ良いか!と思っている。 先週を振り返ると、七日間中五日パジャマ(内一日は下だけ着替えた)ではなかろうか。 パジャマの日=一歩も外に出ていない。 私は散歩が大好きだ。本当は、ほんの十五分でも外に出たい。ではなぜこんな事になっているかというと、積極的にひきこもっているからだ。 一日は、家事と子どもの世話で終わる。大げさでなく、本当にそれだけで終わる。私は、この数日、夜中に起
私は、詩人ではない。しかし、詩を理解したいと思っている。 詩、というのではないが、とあるアーティストの母親業をテーマとしたアート制作に関わるという幸運を得て、その過程で詩を作った。 夜、カーテンを閉める私の心のうちを、詩という形で表現してみた。以下に掲載したいと思う。 詩『カーテン』 カーテンに手をかける 一日が終わりつつあることの安堵 カーテンを引く 外の世界は遠ざかり、家の中は小さく暖かな地下室になる 私の知らないところで世界が眠り、静けさに包まれて