シャルレ二番館の恋人
「坂下さんを見てるとイライラする」
雨の雫で濡れたわたしの髪を、傘をさしてない方の手で、かき上げられながらそう言われた。
それはいつものように、終電ギリギリまで仕事をし、ポツリぽつりと降ってきていた雨が、
気づいたら本降りになりかけた帰り道のことだった。
「あいつらが坂下さんのこと試そうとしてることが分からないん?なんでそんなに笑ってられるんや」
中条くんとわたしは、時々こうして帰りが一緒になることがよくあった。
「坂下さんこれお願ーい、わたしこれからどうしても外せない用事が出来ちゃって!」
「わたしもこれお願い」
確かに仕事の頼みごとをされることは多かったかもしれない。
だけど「皆んな色んな用事で大変やな」
そのくらいにしか正直思ってなかったし、逆に仕事を任せてもらえるのは信頼されてるみたいで嬉しかった。
そう思いながら渡された仕事を黙々としていると、どこからともなくひょっこりと猫毛の中条くんが現れて仕事を手伝ってくれることが増えた。
だから中条篤くんに、
「あいつらが坂下さんのこと試そうとしてることが分からないん?なんでそんなに笑ってられるんや」
と言われるまでは本当に自分が試されるなんてこと気にしたこともなかった。
「だって、誰だって忙しかったら他の人に頼むでしょ?お互い様なんだから良いやん」
そういうと中条くんは、悔しそうなだけど切なそうな目で
「ほんと貴女はアホな人やな」と傘をさしてない方の手で頭を撫でてくれた。
それから約6年の年月が流れた。
わたしの隣には、あのとき頭を撫でてくれた中条…篤がいる。
篤はこんなノロマで鈍感なわたしの傍に6年経ってもいてくれる。
「昌美はホンマにのんびりややなぁ」と、
まるで猫を可愛がるように頭を撫でてくれることがよくあった。
そのときの篤の目は、優しくてすごく大切にしてもらってることが伝わってきた。
幸せだった。
ここはシャルレ二番館。
急勾配の坂を駆け上がるとひょっこり見えて来る3階建てのアパートだ。築年数も古くて昔ながらの作りだけど最近外壁を塗り替えてもらって、青い壁が特徴のとてもすてきな建物になった。
篤とわたしはこの2階と3階に住んでいた。
同じ会社だったわたし達は、あの雨の夜以来特別な仲になった。
いわゆるわたし達は恋人になったのだ。
ほんとは、今年の6月結婚式を挙げる予定だった。だけど…
「あのな、篤ちょっと相談があるんやけど」
「どうしたん、昌美そんな真剣な顔して。」
わたしは胡座をかいて、映画を見ていた篤の前にちょこんと座り、正座をした。
「あんな、怒らんと聞いてほしいねんけど…6月に予定してた結婚式延期にしてほしいねん」
一瞬間があったが、篤は姿勢をただし
「ん〜…多分昌美のことやから、そう言うんちゃうかと思ってたんよ。アレやろ?コロナの影響が大きいからやろ?」
篤の言った言葉の通りだった。
「篤やったら、分かってくれるって信じてたけど…せやねん。うちの花嫁姿1番たのしみにしてくれてんの、両親じゃなくておばあちゃんやから。もうおばあちゃん90近いし、無理させたくないねん。だから…延期したい」
すると、篤は
「せやなぁ、去年の夏くらいから一所懸命用意してきたし延期したくない気持ちも正直あるけど…昌美がそう言うんやったら、その方がええんやろな。今はやめとこか。」
「うん、ごめんな。篤もムービー作ったりいっぱい協力してくれたのに」
「ええよ、昌美が喜んでくれる顔みるのが1番やから。昌美のそういう周りを気遣うところ俺は好きやで」
そしていつもみたいに優しく頭を撫でてくれた。
今は…
いまは出来るだけ家で過ごそう。
けどな、うちまだ篤に伝えきれてないことがあんねん。
「篤…いつも1番にうちのこと考えてくれてありがとう。篤が困ったときは、いつでも力になるから言うてや」
篤は寝癖でクシャクシャになった髪とおなじくらい、クシャクシャの笑顔で笑ってくれた。
※オンライン飲み会のふたりのお話しです。
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