そのひとが本当に大切にしたい雨粒の音は
雨粒のポツポツと滴る音が、耳に届く。
そとは雨。
灰色に染まった空に、流れのはやい雲がどこまでも広がっていた。
わたしはその日、たまたま入ったお店のラタトゥイユとパンが美味しかったことに胸を躍らしていたけれど、それでも午後のことを思うとなぜかこの空のように憂鬱な気持ちになってしまった。
いつもなら、雨の日はどこか懐かしい郷愁を思い出し、雨の匂いやその音にワクワクするはずなのに…
そうならなかったその理由は、武勇伝ばかり話すひとの傍にいなければならないからだった。
そのひとはお得意先のひとで、
薄くなった髪を撫でつけ、革張りの椅子に腰掛けながらいつも武勇伝を話していた。
「僕はねー…、僕の若いころはねぇ」
正直そんなつまらない話しをいつまでも聞かされるのなら、違うことをしていた方がマシだと思ってしまっていた。
そとに出ると最初はポツリポツリと、小振りだった雨がやがて大粒の雨となり地面に降り注いでいた。
雨粒のポツポツと滴る音が、耳に届く。
そとは雨。灰色に染まった空に、流れのはやい雲がどこまでも広がっていた。
今日は風が、冷たい。
前開きのベージュの薄手のコートを、手で覆いながら秋空のしたを歩いた。
その日さした傘は空色の傘だった。
「笠井課長…!」わたしは得意先のビルの入り口で待ち合わせていた営業課の課長と2人で、建物のなかにはいった。
課長は50歳を超えている。じぶんよりも若い上司もたくさんいるなかで、いつもニコニコ笑っていた。
「やぁやぁ、よく来たね。待っていましたよ」
例の部長は薄くなった髪の毛を懸命に撫でつけ、不気味にニヤリと笑ったあと、いつもの武勇伝を話しだした。
「いやぁ、僕はねなぜか昔から人と一緒に物事をスタートすると、ひとよりも早く形に出来てしまうタチでね…半年で主任、1年半で課長に上がったんだよ。別にね?特別なことはやってないんだ。ただ、どうしたら効率よく出来るか考えていただけでね。そうして気づいたら今の場所にいたんだよ」
そうやって革張りの椅子をキイキイと鳴らしながら、薄い髪の毛の部長は延々と武勇伝を話していた。
「ほら、僕ってさ、なんでも人より早く出来ちゃうからさ…笠井さんだっけ?笠井さんが課長になられた頃には、もう僕は部長だったと思うよハッハッハ」
その言葉にカチンと来たわたしは、徐に立ち上がろうとしたけれど、笠井課長はわたしの手を押さえて、静かに首を横にふってその場をおさめた。
どうして…?
わたしは、得意先とはいえあんなにバカにされている笠井課長が、どうして黙ったままでいられるのか分からなかった。
それでも笠井課長が首を横にふってくれたおかげで、わたしはその場にとどまることが出来た。
帰り道、わたしは課長に尋ねた。
「課長、どうしてあんな事を言われたのに言い返さなかったんですか…」
そとは雨。
灰色に染まった空に、流れのはやい雲がどこまでも広がっていた。ザアザアと流れる水の滴が傘に静かに落ちてきていた。
「そうだねぇ、さっきの話しだけど…もし僕がもう少しいまよりも若かったらカチンと来ていたかもしれないね。お前に何が分かるんだ…!ってさ。だけどさ、50も超えて最近思うんだよ。本当にひとの価値観はさまざまなんだなって」
そうして笠井課長は優しく笑った。
「さまざま…ですか…」
「そう、例えばあの人みたいにじぶんの能力を誇示することに生きがいを感じている人もいたら、僕みたいにこうやって慕ってくれる部下を持つことに生きがいを感じるひともいる。
皆んな価値観が違うからこそ、相容れない楽しさを見つけられると思わないかい?」
そのときわたしは、
笠井課長は周りが笠井課長を評価している姿より遥かにもっと先を見据えているのだと思った。
「僕はね、雨が好きなんだ。雨はね鬱陶しいというひとたちもいるけれど、耳を澄ませると色んな雨粒の音が聴こえてくるんだよ。
その一つひとつがどれも違った音でさ。
僕はね、この雨粒の一つひとつみたいに、人も皆んなそれぞれ違うものだと思っているんだ。
だから、同じ土俵には立たない。
だって求めるものが同じ先にはないんだからさ…」
そして笠井課長はひと息つくと
「でもね、綺麗ごとだけではいまの世の中は生きていけないよね。だから僕は本当の喜びや価値はそっとじぶんの胸のうちにしまって、こうして仕事をしているんだよ」と言った。
わたしは…笠井課長が素敵だと思った。
だれがどう思うかとか、関係ない。
きっと笠井課長の目に見えているものは優しいものだと思った。
雨粒のポツポツと滴る音が、耳に届く。
そとは雨。灰色に染まった空に、流れのはやい雲がどこまでも広がっていた。
今日は風が、冷たい。
前開きのベージュの薄手のコートを、手で覆いながら秋空のしたを歩いた。
その日さした傘は空色の傘だった。
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