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明暦の大火サイドストーリー~左様せい様と天守閣(1)

超弩級要塞~江戸城天守焼失

1657年に発生した明暦の大火は、神君家康公の開府以来半世紀にわたり発展してきた江戸の町をわずか3日で焼き尽くしました。

慶長度(家康)・元和度(秀忠)・寛永度(家光)とそれぞれの治世で天下普請を敢行し、史上最大級の要塞だった江戸城も……。

……この大火でほぼ焼失してしまいました
( ω-、)トホン💧

この天下普請というのは全国の大名に幕府の公共事業(おもに築城・治水などの土木工事)を大名方の持ち出しでやらせるもので、別名「手伝い普請」といいます。特に家光治世の寛永の江戸城天下普請は大規模で、「葵徳川三代の威光ここに極まれり」といったものでした。

この寛永の天下普請の江戸城増改築により、江戸城天守閣は天守台を含めると高さ約59mに達したとのことです。これは1F≒3mとするとビル20階分の高さに相当するものです。

記録によると信長の安土城・秀吉の大阪城の天守がそれぞれ30m強でしたので、徳川家の江戸城がいかに壮大だったか分かります。大阪城と比較して高さにして2倍、敷地面積は3倍です。

まさに超弩級要塞。

戦乱の世だったらまだしも、天下泰平の江戸時代になってこれほどの建築物を諸大名に普請させるという徳川将軍家のパワーたるや(; ・`д・´)💦

徳川オリジナルスリーの武断政治

このように天下普請・手伝い普請を繰り返しさせることで、諸大名は経済的に弱体化し、徳川家に逆らう力を失っていきます。

その他にも歴史上名高い無駄遣いイベント「参勤交代」や、戦略拠点を持たせない「一国一城令」など、徳川三代(オリジナルスリー)は大名(特に外様)の経済力・武力を徹底的に削ぎ、中央集権体制を盤石にしていきます。

このように徳川将軍が主導し、幕府の圧倒的な武力と経済力を背景に全国の諸大名を支配する仕組みを武断政治と呼んでいます。

徳川将軍家の命に背くことは許されません。下手を打てば減封やお家取りつぶし(改易)、最悪の場合死罪です。
言いがかりかなのか、見せしめなのか、江戸時代の初期に戦国の世を股にかけてきた外様や、幕内の権力闘争に敗れた諸将が次々に改易の憂き目に遭っております。

天下泰平の時代に武力はもう必要なくなったのです。否、徳川家の圧倒的パワーによってそうさせられたのです。兵士も軍隊も軍事産業もそれほど必要ではなくなりました。

お武家さんはいよいよ刀を筆に持ち替えなければならない時代となり(帯刀はしていましたが)、それどころか改易武家に雇用されていたお侍さんが大量に失業しました。
(´っ・ω・)っ 💨メ  ヒツヨウナシ

少年公方徳川家綱~左様せい様

さて、そんな徳川家の威光の権化となった超弩級要塞江戸城天守閣からは、まさに「下天のうちを見渡せた」ことでしょう。西の富士山はもちろん、東は九十九里浜まで見えたともいわれています。江戸っ子たちはしばらくの間この日本歴史上稀有な巨大建造物を見上げていたことでしょう。

しかし……。

江戸城天守閣は寛永度の完成からわずか19年後、1657年の明暦の大火であっさりと焼失し、その後二度と再建されることはありませんでした。木造ですから、火に弱いのは致し仕方ないでけどすね(・´з`・)

泰平の世に必要なのは要塞ではなく政庁と住居です。天守閣を除いて江戸城、武家屋敷、江戸の町は粛々と、時代背景に合わせてリモデリングされていきます。

そんな時代に将軍様だったのが4代将軍徳川家綱公です。創設期のオリジナルスリーが武断政治により幕府を盤石にしたのち、将軍になられたお方です。将軍宣下を受けたのはわずか11歳のとき。まさに少年公方でした。

……と言いますのも、3代将軍家光にはなかなか世子が誕生せず、家綱が誕生したのは40歳前でした。家光は待望の嫡子誕生を大いに喜び、祖父や自身の幼名でもあった竹千代と名付けます。その後綱重綱吉など5人の男子に恵まれますが、家光はほどなくして急死します。享年48歳でした。

この予定外の家光の死は江戸幕府のターニングポイントとなりました。

家光も、世子家綱がもう少し成長したら将軍職を譲位して、祖父や父のように大御所として君臨してやろうとも考えていたでしょう。

わずか11歳の少年に政治指導者は難しく、ましてや圧倒的パワーで諸大名を従わせていた家光が亡くなったとなると、政情不安定になることは必至です。家光までの武断政治で容赦なく大名家を改易させていましたから、全国に「戦国乱世よ再び」と待ち望む浪人はたくさんいました。

家光遺臣団は幼い将軍を支えるべく合議体制をとり、この難局を乗り切ろうとします。由井正雪の乱のようなクーデターが小火ぼや程度で済みましたが、築きあげてきた幕府の威信が足元から揺らぎかけていました。

そんな中、幕府存亡の期待を一身に背負った少年公方家綱は大変なプレッシャーです。数えで11歳だとすると小学校5年生……。私、少年桜は漫画とファミコンとジャンプと晩ご飯のおかずのことしか考えていませんでしたから……。
( ˘•ω•˘ )チーン

左様さようせい」

家綱公の口癖だったようで、「そのようにしてくれ、任せるよ」という意味です。いわゆる「承認」ですよね。そりゃそうですよ、小学生が40・50歳の大人に囲まれて難しい政治の話を持ってこられても困ります。

ということで家綱公についた渾名あだな「左様せい様」でした。

時に無能なお殿様は「そうせい様」「そうせい公」などと呼ばれることがあります。でも、当時の少年家綱公を取り巻く状況では仕方ないかと思います。

しかし……後の創話かもしれませんが、家綱公は「左様せい様」と揶揄されるほどダメな将軍でもなかったようです。
(´っ・ω・)っ ド‐ユウコト?

次回、そんな「左様せい様」こと少年徳川家綱公と、明暦の大火にまつわるエピソードをお話いたします。

明暦の大火サイドストーリー~左様せい様と天守閣(2)へ続く

以前、明暦の大火についての記事を書いています。




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