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伝馬町牢屋敷と走れメロス~明暦の大火サイドストーリー~

〔前説〕
この記事の話題は江戸時代の火事についてです。
火事の話題をセンシティブに捉える方もいらっしゃるかもしれません。記事の内容は江戸時代の歴史、風俗のことですので、どうかご了承いただけると幸甚です。

著者謹白

緒言:走れメロス

私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。……私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。

太宰治「走れメロス」

処刑されるために王の元へ戻る主人公メロスと、メロスを信じてあえて捕らわれの身となった莫逆ばくぎゃくの友セリヌンティウス。

真の知己を語った太宰治の代表的短編小説「走れメロス」はあまりにも有名です。

この一文はメロスが戻る途中に川の氾濫や山賊に襲われるイベントに遭遇し、一度はあきらめかけますが、思い直して再起する部分のくだりで、タイトルにもなった物語の重要部分です。

戦後ながらく国語の教科書にも採用されていますので、どなたも一度は読んだことがあると思います。私、少年桜も感動した思い出があり、その後も何度か読み返しました。いい大人になってみると(?)と思う所はありますが、それは私が俗世にまみれた証拠でございましょうや。(。´・ω・)?

メロスを支えていたのは「信頼に応える。」という、この一点に尽きます。

伝馬町牢屋敷

さて、先日、「明暦の大火」について記事にいたしまして、江戸の都市計画の転換点となったことや、原因となった諸説についてふれました。
今日はそのサイドストーリーです。

1957年(明暦3年)1月18日ごろ本郷丸山付近で発生した火災は神田、京橋方面を瞬く間に延焼させていきました。世にいう「明暦の大火」の第一波です。この火の手は、神田にほど近い伝馬町牢屋敷にも迫ってまいりました。

伝馬町牢屋敷は、未決囚を処断まで留め置く場所、いわゆる「拘置所」でした。何らかの疑いで捕縛された者は、庶民から武士、幕臣にいたるまでこちらに収容され、穿鑿(取り調べ)がおこなわれました。拷問蔵、処刑場なども同施設内にあり、安政の大獄では橋本左内吉田松陰らもこちらに収容されたのち、刑に処されました。

さて、この伝馬町牢屋敷には石出帯刀いしでたてわきという牢屋奉行(囚獄)がいました。「石出帯刀」とは伝馬町牢屋敷の牢屋奉行の世襲名(石出家の長男の意味)で、これは石出帯刀吉深よしふかのお話です。

猛火が目前に迫る中、石出帯刀は決断を迫られます。

切放きりはなしをするか。」
つまり囚人を人道的措置として解放するか否かです。

囚人の中には凶悪犯や死罪が決まっている者もいます。牢屋奉行とはいえ立場は町奉行の下。奉行所の許可がなければ囚人を解放することはできませんが、もはや裁定を待っている時間もありません。

石出帯刀は囚人解放を独断で決行します。

よく聴けおまえたち!いまからお前たちを解き放つ。大火から逃げおおせた者は3日後、下谷の善慶寺に集まってくれ。さすればその義理に報い、この石出帯刀が命にかえても罪一等減ずることを上申する。ただし、もしもこの機に乗じて逃げる者あらば、私が雲の果てまで追いつめてその者を成敗する!

と言って囚人たちを逃がしました。囚人たちは石出帯刀に涙を流して感謝し、それぞれの場所へ散っていきました。解放した囚人は120人前後といわれています。

切放、その後

大火が収まった後、なんとすべての囚人が石出帯刀の元へ戻ってきたそうです。まさに義理と人情。石出帯刀は囚人たちを信頼し、囚人は石出帯刀の恩義に応えようとしたのです。

この囚人たちの行動に対して、石出帯刀は直ちに老中へ嘆願し、その後全員減刑の沙汰がありました。石出帯刀は独断を咎められることなく、むしろよくやったと称賛されたとのことです。

この災害時の「切放」はその後も適用され、大火の多かった江戸時代には12回の切放が実行されたとのことです。切放は明治時代の「旧監獄法」で明文化され、そして現行の「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」いたるまで、引き継がれています。

留置業務管理者は、地震、火災その他の災害に際し、留置施設内において避難の方法がないときは、被留置者を適当な場所に護送しなければならない。
 前項の場合において、被留置者を護送することができないときは、留置業務管理者は、その者を留置施設から解放することができる。地震、火災その他の災害に際し、留置施設の外にある被留置者を避難させるため適当な場所に護送することができない場合も、同様とする。
 前項の規定により解放された者は、避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、留置施設又は留置業務管理者が指定した場所に出頭しなければならない。

「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」第215条

おわりに

石出帯刀のこの美談を読んだ時、ふと「走れメロス」を思い出し引用してみた次第です。「信義」の尊さをこの二つの物語から感じます。

とても感銘を受けた美談ではありますが、大火の中逃げ出した囚人たちの心中はいかに。こういったジレンマが発生したのでは?と考えてしまいました。

トゥルーエンド
逃亡しない⇒減刑のみ
(帯刀次第だが、確からしい)
グッドエンド
逃亡する×捕まらない⇒自由な人生
(不確実)
バッドエンド
逃亡する×捕まる⇒死罪
(不確実)
※本来は牢屋敷で最期だった。

「解放した囚人の全員が帰還した」という話が真実だとするならば、とても興味深い結果だと思います。

もしかしたら、人間は「最良」と「最悪」を想定し、それぞれが現実となる可能性をもとに、折り合いをつけているのではないか?とついつい考えてしまいました。

しかし戻ったとて、石出帯刀が彼らの減刑してくれる保証はあったのでしょうか?疑心暗鬼になってもおかしくはありません。石出帯刀と囚人との間には減刑を確実なものと信じられる「何か」があったのでしょう。
それが石出帯刀の「人徳」や「信頼関係」だとするならば、それはもう、素晴らしいことです。

不文律ながら、これを契機に「切放」がながらく続けられたことからも、囚人たちが逃亡せずに牢屋奉行石出帯刀の元へ戻ったことだけは事実のようです。

ちなみに蛮社の獄で伝馬町牢屋敷に捕らえられた洋学者「高野長英」は、この「切放」の制度があることをよく知っていて、獄中で雜役を教唆して牢屋敷を放火させ、切放後に逃亡したため指名手配されました。辻には人相書きまで立てられたため、硝酸で顔を焼き人相を変えてまで逃亡していましたが、密告されて再び捕らえられました。(この切放をしたのも、?代目かの石出帯刀だそうです。)

伝馬町牢屋敷跡地は現在公園となっております。
「吉田松陰終焉乃地碑」もこちらにあります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

私の過去の明暦の大火についての記事はこちらです。


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