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【短編】梨~父の日に

ここに7歳になる「おさる」という男子がいた。越中守山を離れ、従者を伴い籠に揺られること数日、加賀小松までやってきた。お猿は突然告げられて押し込められた籠から外の世界をぼうっと眺めていた。

小松殿こと丹羽長重はお猿の到着が待ちきれず城門の側まできてジリジリしていた。長重は齢30過ぎ、立派な体躯の割にどこか剽軽ひょうきんな面持ちのある優漢やさおとこである。誰が呼んだか父と同じく「槍の米五郎左こめごろうざ」。若い頃から父長秀の代わりに丹羽家当主として家臣団を率い、ひとたび戦場いくさばに出れば丹羽家秘伝の突き槍術をもって歴戦を生き抜いてきた勇者である。

しかし今や敗軍の将。「関ヶ原」は終わったのだ。北陸の覇権は完全に東軍の前田家のものとなり、西軍に与した丹羽家加賀小松12万石は喉元に鉄砲を突き付けられて、まさに風前の灯火であった。

長重といえばひとかどの人物であり、今や天下人となった家康の覚えもめでたき将である。更に言えば既に鬼籍に入った両人、長重の父長秀と前田家当主利家はかつての戦友で昵懇じっこんの仲。何とか家康に取りなして欲しい、と前田家に嘆願することとなり、ようやく和議が結ばれた。

両家不戦の約定の証人として越中守山から遣わされたのがこのお猿である。「証人」と言えば聴こえは良いが、両家で取り交わされた、いわゆる人質である。



お猿の籠が小松城に到着するやいなや、長重と家臣が出迎えた。
「おぉ、これはこれは猿千代殿。小松までようこそ。さぁさ、お疲れじゃろうからこちらへ。」
望外な長重の歓待に戸惑いながら用意された広間に案内された。
「猿千代殿、ここを自分の城じゃと思うて好きにお使いくだされ。」
長重は満面の笑みを浮かべてそう言うと、まじまじとお猿の顔を眺め、「ほぉ。」と感嘆の声を上げた。
「猿千代殿は父上の面影がありますなぁ。いやはや、それどころではない。そっくりではないか。」
「父上の利家様は背が高くて美丈夫でしたなぁ。兄上たちも利家様とどことなく似ておりましたが、猿千代殿は別格ですな。良い目をしておられる。」

お猿は言葉の意味が良く分からなかった。父の利家と会ったのは四つの時。しかも一度きりではっきり覚えていない。そのあとすぐに父は病に倒れ亡くなったと聴いた。兄たちとも、弟とも一度も会ったことはなく、顔も知らない。自分に兄弟がいることも最近知ったほどだ。

「この長重を小松の父だと思いなされ。では、ごゆるりと。」

長重が去って静かに部屋を眺め、庭にも降りてみた。秋の細い陽光が差し込んでいる。今まで住んでいた守山よりもきれいで広かったが、しんとしていて幼いお猿はどんどん心細くなって、その夜布団の中でひっそり泣いた。

「猿千代殿……、」
「同じ年のころの者もおりますゆえ遊ばれたらどうじゃ。」
「こちらに面白い絵巻があるゆえ、見に来られよ。」
「槍の持ち方を教えて進ぜようぞ。そう、こうじゃ。」
長重はことあるごとにお猿を気遣い、声を掛けてきた。

お猿は守山でこのような扱いは受けたことがなかった。お猿は父利家が56の時に侍女との間に生まれた子であり、生まれて直ぐに正室の芳春院ほうしゅんいん(まつ)の目の届かない所へ、と守山城代を務める姉婿の長種の家に預けられた。大大名、前田利家の子ではあったが庶子で生母の身分も低く、しかも四男坊である。大した処遇ではなかったのであろう。

小松で過ごすうちお猿の心は次第に打ち解けていった。何より嬉しかったのは、小松によく手入れされた立派な梨の木が生えていて、長重が自分のために自ら梨をいできて、むいてくれたことであった。
「この長重が梨をむいてあげましょう。めそめそせずに元気を出しなされ。」とお猿を励ました。

長重は、「この長重、顔相をみるのが得意にて、猿千代殿の顔相をみるに、いずれ三国持ちの太守になるやも知れませんぞ。望みを捨てず励まれよ。」と言ってくれた。

噛み締めるたびに、みずみずしい果汁の酸味が口一杯に広がり、たちまち遊び疲れた身体に染み渡る。
自然とお猿の顔に笑みがこぼれた。

梨にかじりつくお猿の横に座り、長重はお猿の父、利家の話をしてくれた。

お猿と同じ四男坊だったこと、若い頃傾奇者かぶきものであったこと、不遇の時代があったこと、「槍の又左衛門またざえもん」と呼ばれた武辺者であったこと、日の本ひのもと随一の大大名にまで立身出世したことなどを聴かされた。

自分の父がそれほどの大人物だったのだとはじめて知り、誇らしくもあったが、それに比べて身の置き所もない、ちっぽけな今の自分がよけいにみじめで悲しくなってきた。
一度で構わないから、そんな父と話がしてみたかった。

それから長重は実父長秀のことや義父織田信長のこと、父利家の友だった太閤秀吉のこと、兄利長や叔父利益(慶次郎)のことなどを良く教えてくれた。

この世の人たちはあざなう縄のごとく、絡み合って、つながって、だから自分はひとりぽっちではないのだと、お猿は知った。

長重の武辺話は軽妙で子どもにも分かりやすく、お猿はまるで戦場いくさばにいるかのように陶酔し、ときには手に汗握って身を乗り出し、夢中で聴き入った。

……そして長重は、もはや豊臣に力なく天下は徳川のものとなり、乱世は終わったのだ、ということも教えてくれた。



ほどなくして家康から使者が到来した。長重らの嘆願むなしく丹羽家は改易となり、長重は高野山蟄居ちっきょを命じられた。よほどの者であったのであろう、秀忠はじめ東軍方にも長重の助命を望む声は多く、家康もそれを承知していた。

やがて北陸一の要害小松城は前田家に明け渡され、丹羽家は散り散りとなった。当主長重はお猿の元から去ることとなり、お猿もまた金沢に戻されることとなった。高野山への去り際に見送りに出たお猿に、長重はこう告げた。

「猿千代殿、息災でな。よいか、かぶいてこそ前田の漢ですぞ。父上や利益殿のように、大いにかぶかれよ。武運長久を。」

お猿が金沢に戻ってしばらくしたある日、お猿の兄である前田家当主利長の命で、城内の舞台で能がおこなわれることとなった。

利長が能を見ていると、家臣団の子どもたちの中に、ひときわ目を惹く男子がいた。近習を呼び、「あそこにいるのは誰の子じゃ。」と尋ねると、近習は耳元で「猿千代様にございます。」と告げた。

「おぉ、あれが我が弟、猿千代か!何と言うことか、下座にいるではないか。早くこれへ!」利長が怒鳴り呼びつけると、家臣に連れられてお猿がおずおずとやってきた。

利長は目を見張った。「あぁ我が弟よ、近う!お主に会いたかった。その目、その顔、亡き父上に瓜二つではないか。ようきたな。ようきたな。」利長はお猿の両手を取ってたいそう喜んだ。

「痩せっぽっちじゃのう。お主にはもう不自由な想いはさせないぞ。今日から相伴と草履取をつけさせよう。飯も沢山食べて早う大きくなれよ。」

お猿はようやく前田宗家としての処遇を得ることとなり、父利家同様に体躯と美貌にめぐまれて育つこととなった。



しばらくして家康は朝廷より征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府が開かれた。前田宗家も徳川に臣従することとなり、実母芳春院ほうしゅんいん(まつ)やお猿より幼い弟たちは江戸に住まうこととなった。

ある日江戸に参勤していた利長の元に細川忠興が訪ねてきた。忠興とは年も近く、若い頃より戦場いくさばで武功を競った仲間である。忠興は少しためらいながら利長にこう話した。
「利長殿、家康様は前田家に対しての疑念をまだまだ捨てておりませぬ。油断めさるなよ。芳春院ほうしゅんいん様も国元に帰れず江戸でご不自由されているのではなかろうか?」
「ふん。それは細川とて同じことじゃろう。母上にはご不自由されないようにしておるわ。」利長は苦笑いした。

「……ときに利長殿、世継ぎはどうなされる?お主はもう40で持病もあろう。だが子がおらん。なんでも幕府が近々大規模な無継嗣改易するとか、きな臭い話も出ておるゆえ。」

「世継ぎか……。」
このまま前田に世継ぎがなければ無継嗣改易……⁉︎。何とも理不尽であるが、これでは前田は格好の的じゃ。お家断絶となればあの世の父に、前田のために死んでいった者たちの霊に、どう申し開きすれば良い。……かくなる上は大坂の秀頼様を戴いて今ひとたびの「関ヶ原」を……。利長は拳をきつくし、再び湧き上がってきた父の代からの家康への怨念を抑えつけるのに必死だった。

忠興はにわかに殺気立つ利長に手をひらひらしてこう言った。
「まぁ落ち着きなされ利長殿。家康様も勇猛果敢な前田10万軍とまともにやり合おうなどと思っておらん。そこで儂も浅野殿も常々が考えておったのじゃが、この際一門から何某なにがしか養子をとって、徳川家と縁組を早う進めるというのはどうじゃ。まだ幼いが、秀忠様にたまという姫君がおる。姫君に見合う継嗣を立てれば前田は徳川一門、万世不易じゃ。徳川家にとっても前田家にとっても悪い話じゃなかろう。」

……ははぁ。忠興の奴め。この話がしたくてきたのか。裏にいるは家康か、あるいは秀忠か。

利長は奥歯を噛み締めて逡巡した。加賀100万石前田家の未来を託すのだ、忠興がいうほど簡単ではない。利長にはたくさん弟がいたが次男・三男はすでに出家しており、江戸にいる弟たちも前田家を託すにはあまりに幼く、いまいちぱっとしない……。

「そうか、……猿か……猿千代か!」
利長の頭に一瞬芳春院ほうしゅんいんの不機嫌な顔が浮かんだが、えぇぃと振り払い、忠興に顔を近づけた。

「忠興殿、国元に猿という弟がおる。これがまた父上にそっくりでな。器量もよい。年の頃もとお、どうじゃ!」

「ほぅ。弟君か。利家様の実子ならば何も問題ない。では……その……利家様そっくりの猿殿をお世継ぎに立てられよ。儂らの方でも何とかするゆえ。」

しばらくして珠姫の前田家への輿入れが決まった。前田家は松平姓を下賜され晴れて徳川一門入りを果たすが、家康はさらに利長の隠居と、姫婿への家督相続を迫った。

利長は国元へ戻り、お猿にこう告げた。
「猿千代よ、これからお主は加賀100万石前田宗家の世継ぎとなり、将軍家の姫君がお主の室として輿入れされる。我らは徳川一門となるのだ。」

「それからお主は儂の養子じゃ。名を犬千代と改めよ。父上と儂の名ぞ。今後前田家は世継ぎに代々犬千代を名乗らせよ。儂はこの加賀のためにほどなく身を引くゆえ、あとは横山ら家老と国の行く末についてよく話合え。」

お猿は急な話にたいそう驚いたが、一番びっくりしたのは、自分はこれより猿から犬になるのか、ということであった。

おわりに


その後犬千代は元服して前田利光と名乗り、家督を相続して加賀藩2代目藩主となった。泰平の世にかぶくのはなかなか難しいものであったが、利光はその矜持を忘れずに励み、加賀・能登・越中120万石の礎を築いた。まさに丹羽長重の予言通り三国持ちの太守となったのである。

兄と同じく40を過ぎて家督を子の光高に譲り、名を利常と改めた。養老先に選んだのは証人としてわずかの間過ごしたあの小松城であった。

小松にはあの時と変わらず梨の実がなり、利常は晩夏になると必ず取ってこさせ、そのたびそばの者に「小松の父」との思い出を嬉しそうに語った。

晩年は微妙公みみょうこうと呼ばれて民に慕われ、加賀の地で運命に翻弄された66年の生涯を閉じた。

さて、丹羽長重の方はどうかというと、ほどなくして蟄居が解かれ、将軍秀忠の御伽衆おとぎしゅうとして加えられた。卓越した顔相術はもとより、その軽妙な語り口は、数少ない戦国の語り部として将軍家に重宝され、西軍に与して改易された大名家としては珍しく御家再興を果たすこととなった。何度かの国替えがあったが二本松丹羽藩は明治維新まで存続した。

令和4年父の日を前に
亡き父に捧ぐ

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