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トラウマの上書きは可能で、その手法はなるべく多くあった方が生きやすくなるという話

高いところに行くと足がすくむ。先端を向けられると動けなくなる。鳩が恐怖でしかない。
こうした過去の恐怖体験が今も続いていることを一般的にトラウマという。

最近NLP(脳科学)のトラウマ治療ワークを受けてみた。恐ろしかった体験を安全な感覚や楽しかった記憶に上書きして、ふっと恐怖だけどこかに飛ばすような体験だった。

ボディワークのトラウマ治療でも、やることは基本的に同様で、怖かった時の感覚を上書きするという手法を取る。

例えば事故にあってから首が動かなくなったという人に対しては、まず事故にあった時の姿勢を再現してもらう。そしてゆっくり深呼吸してもらい「今はもう安全だ、もうあの時ではない」と身体に体験の上書きをすることで、動かない首が動くようになったりする。

NLPやボディワークの良いところは、言葉にする必要がないところだ。いつどこで誰に何をされたか、辛かった経験を話すというのは辛かった経験を追体験するということでもある。

自己啓発の学びに行くと、とかく苦しかった体験を吐露させられがちだが、もう十分苦しんできたその体験を、追体験する必要などどこにもない。ならば少しでも本人の負担に少ない形でトラウマを取り除くのが望ましい。

こうした取り組みに対し、文章講座では真逆のアプローチをとる。
すなわち苦しかったこと・悲しかったことをつぶさに言葉にし、そして書き上げた文章をその場にいる人たちの前で朗読し発表させられることが多い。

私も辛かった体験を書き、それを自分で朗読しようと試みるも、涙でとても読み上げられず隣の人に読んでもらったり、しゃくり上げながらなんとか読み上げたことがある。

なんでそんな辛いことをわざわざさせるのか。
それは物書きに絶対に必要である客観視を鍛える訓練だからと考えている。

先日書いたこちらのnote。


(お心を寄せてくださった読者さま、ありがとうございます。なんだか皆様からあたたかいエネルギーを感じました)

泣きながら書き上げているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いていくのを感じた。体験と自分が一体化していて苦しかったのが、書いているうちに分離したようだった。

書くというのは、右脳と左脳の共同作業である。

辛かった体験(右脳)を言葉(左脳)にする。これは主観(自分の気持ち)を物語という客観(他人ごと)的なものに置き換えるということであり、自分と体験を切り離すということでもある。

なかなかしんどい作業ではあるが、逆に言えばこの作業をしなければ死んでしまうような精神性の持ち主が作家という道に進むのであろう。
物書きはちょっとしたことで傷つく繊細さと言葉と人への誠実さと、それらをまるで他人事のように物語に編んでしまう映画監督が同居している生き物なのだ。

NLPやボディワークといった手法は基本的に右脳の無意識にアプローチするので、言葉で恐怖体験を追体験しなくて済む。しかしこの領域はトレーナーやセラピストにそれなりの力量がないとかえって悪化してしまうこともあるので、自分を委ねる相手は、自分を守るためにも厳しい目で選定する必要がある。

その分、文章は左脳が自分の無意識を守ってくれているので、一人で安全にセラピーできるのがいい。まあ私もそれすら辛くて、全て投げ出して他人に身を委ねたい時もあるので、これはどちらがいい悪いではなくケースバイケースだと思うが。

どちらにせよ、恐怖体験、辛い悲しい記憶は上書きが可能だ。

その方法は文章、ボディワーク、NLPといった心理療法以外にも、アートや料理、自然の中に身を置くなど人によって様々にある。

なるべくその選択肢は幅広く持つことで、この世界を生き抜くことを助けてくれると、私は思っている。