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文章もお金も、使ってなんぼ・活かしてなんぼ

20代までは言いたいことの0.1割くらいしか言語化できなかった、後悔と恨みつらみばかりの人生だった。

特に家族にありがとうと言うことが、長い間どうしても出来なかった。
家族へ感謝の想いは内面に溢れているものの、照れくささなのか罪悪感なのか、どうしても家族を目の前にすると「ありがとう」が「すみません」になってしまう自分がいた。

感謝の言葉を伝えたいけど伝えられない。そんな私はあるときお金で解決するという手段に出た。「ボーナスが出たから」と両親を鰻屋さんに連れて行ったり「臨時収入があったから」とケーキを買ってきたり。

実際にはボーナスが出ない会社に勤めている期間が長かったのだけれど、ありがとうが言えるようになるまでの数十年近く、私は家族への想いをお金に代弁してもらっていた。お金で本質的なことを解決することはできないけど、たいていのことはお金で解決できることを学んだ。

そうこうしているうちに文章を書くようになって、だんだんと自分は言語化ができない人間なのではなく、単なるアウトプットの経験量が不足していたことに気づいた。言葉もお金といっしょで、使ってなんぼのものなのだ。

そう思うとお金と言葉というのは似ているかもしれない。

お金で問題を根本的に解決することはできないけど、解決のきっかけやサポートにはなる。お金を持っていてもそれだけではただの貯金王だけど、何か困っている時にお金でその場をしのぐことはできる。

同じように言葉もそれ自体は無力だけれど、本当に大切な想いが相手に伝えようとする時、ものすごいパワーを放つ。
むずかしいことわざを知っているだけならただの知識王だけど、例えば好きな人のどんなところが好きかを言葉にすることができれば「あなたのこんなところが大好きです」と愛する人に伝えることができる。

「語彙力がない」「語彙力を伸ばさないと」と思っている人たちが望んでいるのは、言葉の量を多くすることではなく、とっさのとき相手の心へ最もふさわしい言葉を投げられる力がほしいということのような気がする。

同じように「お金がほしい」と言っている人が心の底で望んでいるのは、通帳に増えていくゼロの数を見てニヤニヤしたいわけではなく、食べたいものを値段を気にすることなく食べたり、行きたいと思った場所に好きに旅行したり、お金を生きた使い道にすることのように思う。

ちなみに想いを言葉にする力は、お金と違って減っていくことはない。
自転車に乗れるようになったけど、練習しなかったら乗れなくなってしまった・・ということはないように、なんとかして想いを言葉にアウトプットしてきた経験はなくなることはない。

他人の言葉をどうしてそのまま使ってはいけないのかというと、それではいざというとき自分を守ることができないからだ。

言いたいことが言えなかった頃の私はよくだまされたり、他人にいいように使われたりしていた。自分の大切なお金を自分で使い道を決めるように、なんでもいいから自分の想いを言葉にして発するというのは、世界で最も大切な自分自身を守り活かすことにつながる。

紙切れ一枚、言の葉ひとつ。
ただの物体にどう意味を見出し生きた使い方を模索するか、私たちは問われている気がする。



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