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「ダサい」の美学:ダサい服はダサい人を前提とする?

以下は、「ダサいという美的用語についてなんか書く」という、自分に課した大喜利への回答である。

「美しい」や「醜い」と同様に、「ダサい」はさまざまな用法で使われうる。そのなかには、記述的要素がなく純粋に評価的な用法や、とくに美的でない用法など、放っておいてかまわない用法がたくさんある。放っておきたくないのは、次のような用例に現れる「ダサい」である。

「この服はダサい」「これはダサい服だ」

ここでは、記述的な内容をもった美的性質としてのダサさが、個別のアイテムへと帰属されている。おそらく、これがダサいの最もベーシックな用法だろう。

一方、「ダサい」はダサいアイテムを選択したり使用するに対して使われることもある。

「あいつは服のセンスがダサい」

ここでは、その人の美的センス、趣味、感受性が非難されている。しかし、センスの良し悪しについての判断が美的判断なのかどうかは論争的な点であり、したがって、美的センスがダサいというときに帰属される性質が美的性質なのかも議論の余地がある。

一見すると、「センスがダサい」というのはダサいアイテムばかり選んでいるという事実からの推論的判断なのであって、アイテムのもつダサさのようには感性的に把握されていないように思われる。美的判断の特徴としてしばしば挙げられるのは、無媒介性である。なにがどうダサいのかわからなくても、ある人の服装をダサいと感じることはよくある。服のダサさは、論証をすっ飛ばして感性に訴えかけるのだ。人のセンスがダサいと判断する際にも、このような無媒介性が見られるのだろうか。(1)ダサい服ばかり着ている、(2)ダサい服ばかり着るならばセンスがダサい、(3)したがってセンスがダサいというのであれば、そこには推論が介在してしまっている。無媒介性が美的性質の必要条件なのだとすれば、アイテムのダサさは美的性質だが、人のダサさは美的性質ではなく、「悪人である」のような道徳的性質により近いものとなるだろう。

ところが、アイテムのダサさ/人のセンスのダサさという区別にはもう一捻りあり、私が思うに、この点こそ「ダサい」という美的用語を面白いものにしている。

先程の説明では、論理的に先行しているのはアイテムのダサさであり、人はダサいアイテムばかり作ったり使ったりするからこそダサい=センスが悪い。しかし、ほんとうにそうか。というのも、アイテムがダサいという判断はほとんどつねに、「こんなの選ぶやつの気が知れない」「こんなのを作ったやつはセンスがない」というセンスのダサさについての判断を伴っているように思われるのだ。さらに言えばただ傾向的に付随するのではなく、ダサセンス非難はダサアイテム非難の論理的前提であるようにすら思われる。というのも、ダサい人の存在を抜きにしたら、アイテム単体のなにがどうダサいのかほとんど理解できそうにないのだ。ここでは、それを作ったり選ぶ人のセンスのダサさが、アイテムのダサさに論理的に先行している。実際ないし潜在的にダサい作者・使用者がいるからこそ、ダサいアイテムがあるのだ。「この服はダサい。デザインした人や着る人のセンスがダサいかどうかは知らんけど」という発言には、どこか馬鹿げたところがある。

次の事実にも手がかりが見つかるだろう。自然界の動物や風景や事象に対して「ダサい」と述べるのにはどこかぎこちなさがある。地震はおぞましく、荒々しく、醜いとさえ言えるかもしれないが、決してダサいとは言えない。理由はおそらくそれらが作者をもたず、また、誰かによって選択・所有・使用されるようなものでもないからだ。観葉植物やペットに対してであれば「ダサい」はもう少し自然に用いられるだろう(「ダサいサボテン」「ダサい雑種犬」)。というのも、そこでは作者や使用者のセンスに対する非難も成立するからだ。

一旦まとめると、「ダサい」という美的性質の帰属は、目の前のアイテムへの非難だけでなく、それを飛び越えて、作者や(実際の/潜在的な)使用者の美的センスへの非難にもなる。いや、作者や使用者がダサ非難に値するからこそ、アイテムもまたダサ非難に値するのだ。あるアイテムの背後に、センスにおいてダサい人がいないのならば、アイテムがダサいということはない

あらゆる美的性質がこのような特徴を示すわけではない。美しい家は、建築家や住民のセンスの良さとは独立に、ただ美しいのである。美しい家を褒めるときに、建築家や住民のセンスまで褒めているとは限らない。醜い絵画は、画家やキュレーターのセンスの悪さとは独立に、ただ醜いのである。醜い絵画を貶すときに、画家やキュレーターのセンスまで貶しているとは限らない。しかし、ダサい服はセンスのダサい人がいてはじめてダサいのである。ダサい服を貶すときには必ず、その作者や使用者のセンスまで貶すことになる。ダサさのような、まずもってセンスのあり方を問題とする性質を、適当にセンス起点性質と呼んでおこう。

ダサいというのは、センスが悪い唯一の仕方ではない。マルキ・ド・サドのように不道徳なものを礼賛する人物は、ダサいのとはまた別の仕方においてセンスが悪い。サドの小説には不道徳である[immoral]という性質が適切に適用されるが、これもまた作者であるサドや好んでその小説を読む読者に対する「センスが不道徳である」という非難を前提としており、センス起点性質である。作者も読者も不道徳ではないのに、小説だけが不道徳であるというのは考えにくい。同様に、「傲慢な[arrogant]」「やる気のない[lazy]」作品も、傲慢だったりやる気のない作者ないし鑑賞者を前提としている。

ポジティブなセンス起点性質もある。「ダサい」が、ある種の洗練されてなさ、やぼったさ、田舎臭さをその記述的要素としてもつならば、洗練されており、スマートで、都会的であるという意味でのセンスの良さがそれと対を成すだろう。ロココ美術は気高い[noble]が、これは気高い作者や鑑賞者を前提としたセンス起点性質である。作者も鑑賞者も気高くないのに、絵画だけが気高いというのは考えにくい。同様に、「慎み深い[modest]」「無垢な[innocent]」作品も、慎み深かったり無垢な作者ないし鑑賞者を前提としている。

「ダサい」という語の用例から出発して、私たちはセンス起点性質という性質のグループを発見するに至った。だからなんだ、その発見のなにがうれしいのか、と言われたら私は次のように答えるだろう。「ダサい」のような美的用語は、純粋にアイテムの美的欠点を指摘するのに用いることは難しく、(潜在的にせよ)誰かしらのセンス=内面の一部の否定になってしまうため、不用意に誰かしらの内面を否定したくないのならば使いどころに気をつけたほうがよいのだ。「顔が醜い」は悪口だが、内面の非難とは限らない。しかし、「服がダサい」は悪口であり、つねに内面の非難でもある。(念のため、「顔が醜い」はつねに内面の非難にはあたらないと言っているわけではないし、悪口としてマシであると言っているわけでもない。)

あるいは、美的実践とはそもそもプチブル的なセンスの競争であって、あらゆる美的判断は人格の肯定や否定を巻き込むものなのかもしれない。センスでマウントしあってなんぼ、というわけだ。この場合、センス起点性質かどうかという私の線引きは無効であり、美しさや醜さも含めてあらゆる美的性質はセンス起点性質だということになる。これはまったく悲劇的(喜劇的?)な描像だが、ある程度ことのあり様を捉えているような気もする。

「ダサい」の周辺には、美的判断の無媒介性、趣味の良さ、美的価値と道徳的価値、表出と表出性などをめぐる、さまざまな問題が入り乱れている。さらなる議論は、ダサいの美学を牽引されている(?)松永さんからの続報に期待しよう。

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