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共感

同棲時代に現オットと大げんかになった時に
「私の立場に立ってみてよ!」
と言ったら
「俺は◯ちゃんじゃないから、立てない」
と言われた事がある。

目から鱗である。

【えーーー。え?(心の声)】

その時、私は完全に覚醒しましたね。

共感とか理解を
当たり前に得られると思っていたら

きっと
ずっと
キツイって事に。

【共感】
共感力って大事で
誰かの気持ちに寄り添うのって素晴らしい事。
それはそう。
出来ないより出来た方がいいように思う。
だけどさ
実際には
そこに近づく努力は出来ても
本当の意味では
共感も理解も出来はしない。

どちらも「している」と言う想像に過ぎない。
って知ってないと
逆に
【寄り添う】だけじゃなくなってしまうように
思う。
アレコレ求めちゃったり
アレコレやり過ぎちゃったり。

その人の痛みも歓びも
全く同じに感じられないし
もっと言えば
同じでなきゃって
苦しくもある、かもしれない。

私を分かって欲しい。

これって何だろ。

私の場合
「私はこんなです〜」
と放った時
受容でも
拒絶でもなく
「あ、そうですか〜」
くらいの感じで会話が始まると言うのが
理想のように思う。

今にして思えば
あの時
現オットに期待してしまったのは
「そうだよねー。ツライよねー。」
なんてのじゃなくて
「え?どう言う事?」
って対話が始まる事だったんじゃないかなあ。

コチラやアチラにカタチを合わせるのではなくて
気持ちや考えを
見せたり
見せてもらったりして
「ほほう」

【知る】
完全受容でも
完全拒否でもないところから始まる新しい世界。

過度な期待や
見当違いな希望を持たないから
通りすがりの一瞬に
たまたま目が合ったような
気持ちや思考の重なり方を
奇跡だと思うし、大切な宝物みたいに思う。
「そっか、あなたも嬉しいんだ」
とか
「そっか、それは悲しいよね」
とか
ピッタリ同じでは無いけれど
知り合えた感覚。
同じでも同じでなくても
【大丈夫】な感覚。

共感が
窮屈なものにならないように
今日も
私の立場に立たない人と知り合っていこうと思う。

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