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毒姉の作り方(「ジャイアンとのび太」だった姉と私が病的な共依存関係に陥り発狂するまで)

毒姉が何年か前に自費出版した著書の中で「自分は虐待の被害者であった」と書いていた。父が昔、姉は息をするように嘘をつくと言っていたが、姉は嘘をつく時はいつも本当のことを少しだけ織り交ぜて話す。故に姉の「自分は虐待の被害者だ」という言い分にも、何かしら私の知らない真実が多少なりとも含まれているのかもしれないと思うと、とても興味深い。最近やっとそう思えるようになってきた。

実際、姉自身も機能不全家庭の被害者であることは、否定のしようがない。私が高校生の頃、姉の家庭内暴力から逃げる形で父の家に避難した時、父から「姉の性格があんな風(ひどく暴力的)になったのは、お前のせいでもあるんだよ」と言われたのを今の主治医とカウンセラーに話したら、とても驚かれた。私はずっと「姉がああなったのは自分のせいだ」と思い込まされていた。

私の家は、警察官の父と公立小学校教諭の母、3つ年の離れた姉と私、母方の祖父母の6人家族だったが、私が生まれてすぐに金銭感覚の違いから両親が離婚して父が家を出て行き、私が4歳の時に祖父が他界、10歳の時に祖母も亡くなり、母子家庭になった。(18の時に父の家で暮らすようになるまで両親の離婚の事実は知らなかった。物心ついた頃から離婚の事実は伏せられ「父は単身赴任」と言われて育った。)

姉と私の間には、幼少期からかなりはっきりした上下関係(ジャイアンとのび太のような関係)があり、内弁慶だった姉から暴力を受けるのは日常茶飯事のことだった。それでも子供の頃は、私はいつも姉の後ろをついて回り、姉も私のことを可愛いと言ってくれていた。祖母がいつも温かく見守ってくれていたお陰だと思う。祖母が生きていた頃が一番姉妹仲が良くて幸せだったと思う。祖母が生きていた頃は、母にもどこか余裕があったし、夏休みやお正月休みになると、父が私たち姉妹を旅行に連れて行ってくれた。家事もお手伝い程度にしかやらなくて良かったし、学校の友達とも遊ぶ時間が沢山あって毎日がとても楽しかった。

祖母が亡くなってからは、家でも学校でも虐められるようになり、毎日が地獄になった。公立小学校の教員としてフルタイムで働いていた母には、精神的にも時間的にも余裕がなかった。小学校5〜6年生のクラスでイジメに遭っていたが、母にとってクソ忙しい朝に登校拒否など起こそうものならば、頭を踏まれて「行け」と言われた。ご飯は毎日欠かさず作ってくれたが、それ以外の家事には母の手が回らなくなってきたので、小学校6年生にあがる頃には、家の掃除と洗濯と布団干しは殆ど私の仕事になっていた。

広いリビングダイニングに大きな洋室が2部屋、和室が2部屋、脱衣所に浴室、トイレが2つ、屋根裏に納戸が1部屋ある無駄に大きな家だったので、掃除が一番大変だった。平日は学校の授業が終わるとすぐに帰宅し、姉が部活から帰ってくるまでに全て片付けなければいけなかった。姉が極度の潔癖症だったので家が綺麗になるとすごく喜んで褒めてくれたが、掃除のやり方を間違えると酷く罵られ、殴られた。

母と姉の仲もすこぶる悪く、姉は母に対しても暴力を振るい、母は更なる罵声と暴力でそれを押さえつける‥といった具合だったが、母の方が根負けしてしまうことが多かったように思う。私も姉にやり返すことはあったが、やり返せば更に痛い目にあうだけだとわかり、やがて姉の言いなりになった。

この頃から姉妹2人で米軍基地で英会話を習い始めた。奨学金を得て交換留学生を目指す姉の早朝勉強に付き合う形で平日は毎朝3時か4時頃に起きていたから、学校に居る間は眠くて仕方がなかった。そんな毎日を送っていたので、姉が高校に進学しアメリカに留学した時は、燃え尽きたように無気力になった。あまりの無気力ゆえに、何のために生きているのか分からなくなった私は、姉の部屋で首を吊ろうと試みるも失敗し、電気コードを吊り下げた備え付けの家具を壊してしまったので、「ドシン」という大きな音を聞いて駆けつけた母に軽く怒られた。たぶん、この頃から私は数年置きに「めちゃくちゃ頑張れる躁状態」と「何にも出来なくなる鬱状態」を繰り返していたのだと思う。

(この時、首を吊ろうとしていたことに気付いていたのか最近になって母に聞いてみたら、昔のことなので思い出せないと言われた。母は、良く言えば、我が道を行くマイペースで先進的な女性である。悪く言えば、色んな面で世間一般の母親とはかなり感覚がズレていた。それでも学校というブラック職場で男並みに稼ぎながら私と姉を育ててくれた読書家で博識な母のことは憎む気になれない。私と姉が2人とも私立の大学に進学できたのは、倹約家の母のお陰であるのだから。もし彼女が母親ではなく、父親であったなら、「男手一つで娘2人を大学まで行かせた立派な父親」として世間から高く評価されていただろうし、父だって娘たちに母のことを悪く言わなかったかもしれない。)

姉は高校一年生の時、アメリカのユタ州に留学していたため、モルモン教徒になって日本に帰ってきた。中学に進学した私は、米軍基地で英会話を続けていたが、お金がもったいないとの理由で姉と一緒にモルモンの教会でアメリカ人の宣教師さんに無料で英会話を習うようになった。モルモンの人たちは家族を大事にする良い人たちばかりだったので、この頃、我々の姉妹仲がいくらかマシになったのはモルモン教徒のお陰だったと思う。

モルモンはキリスト教の中でも異端視されている宗派なので、後にキリスト教系(カトリック)の大学に進学した私は、モルモンの教義は出鱈目であると「人間学」という大学の必修科目の授業中にイエズス会の神父さんに全否定されることになる。姉もキリスト教系(プロテスタント)の大学に進学したので、もしかしたら同じような苦い体験をしていたかもしれない。当時は非常にショックだったが、今思えば、そもそも神の存在を信じていない私にとって、キリスト教としての教義の正統性の是非など知ったことではない。とびきりブラックな長い歴史を持つイエズス会の神父が何と言おうが、人間不信が強く、博愛精神や家族愛みたいなものを喉から手が出るほど求めていたあの頃の私と姉にとっては、モルモンのコミュニティは安全で安心できる唯一の大切な居場所だったのだ。

姉が東京の大学に進学して父の家に移ると同時に、私は高校に進学し、母とふたりで新しい土地に移り住んだ。横須賀という土地柄と海と山に囲まれた穏やかな校風の田舎の高校は私にとても合っていたらしく、暫くは母とふたりでのんびりとした平和な生活を送ることが出来た。(この頃、母とふたりで会話をする機会が増えたので、母の職場の愚痴を聞いてあげたり、学校生活についての話を母に聞いて貰うことが出来るようになっていた。横須賀という土地は、母にも合っていたのかもしれない。)

姉の支配と暴力が再び、そして度を越して酷くなったのは、私が高校2年生の時、姉が大学を中退して未婚のまま子供を妊娠してしまった時からだった。姉にとって一番大変な時期だったのに姉と両親の仲は壊滅状態だった。姉は都内の大学に通うために父の家に移り住んでいたが、エステのためにサラ金に手を出していたことが判明するや父と折り合いが悪くなり、妊娠して母の家に戻ってきたのだ。その頃から、姉の態度があまりに酷いからという理由で母は姉のご飯を作らなくなった(=私が作るようになった)。姉の出産や育児にも両親は手を貸さないようにしていたので、必然的に私が手伝うことになった。

生まれてきた姉の長女は本当に可愛くて、高校のクラスメイトや部活の仲間に写真を見せては自慢して回らずには居られなかった。たまひよの育児雑誌や育児本を読みながら姉と二人三脚で育児に明け暮れたが、姉の家庭内暴力は日増しに酷くなっていく一方だった。

高校生活も終わりに近づいた頃、「お前なんか大学に進む価値はないから出稼ぎに行け(!?)」と卒業後の進路を姉に決められそうになったのと、三年間頑張って続けてきた吹奏楽部の最後の定期演奏会にどうしても出たかったので、一人暮らしの父の家に逃げた。怒り狂った姉が高校まで乗り込んで来て、担任の先生が姉の足止めをしてくれている間に急いで父の家に帰宅した。その日の夜、父の家の前で私を出せと騒ぎ立てる姉を父が見かねてボコボコにした。玄関の壁に押さえつけて、何度も壁がへこむほど殴られながら喚き泣きじゃくる姉を激しく殴り続ける父の姿が、今でも生々しく脳裏に焼きついて忘れることが出来ない。

当時の私にとっての最重要課題は、気分屋(今思い返すと恐らく気分障害)の姉を喜ばせることだったから、私は、姉に心理的に支配されながらも、姉のことが好きだったんだと思う。家族だから困った時に助けるのは当然だと思っていた。後日談だが、この時、姉をボコボコにした仕返しを、父はこの10年後にとんでもない形で受けることになる。

その後、父の家で一年間の浪人生活を経て第一志望の大学に無事進学し、管弦楽部に入った私は、「育児のサポートをするなら楽器を買ってやる」という姉の甘言と2歳になった姪っ子の可愛さにほだされて、また性懲りも無く姉の育児を手伝うようになってしまった。親には「あいつの言いなりになるお前が悪い」と言われ、ついに完全に見放されてしまった。それでも、姉が再婚して無事家庭に収まるまでの辛抱‥と思い、横浜の相鉄線沿いに小さなアパートを借りて姉と幼い姪と共に暮らし始め、リクルートで営業の仕事を始めた姉の代わりに姪っ子の保育園の送り迎えをし、家事と育児に明け暮れた。部活やアルバイトもしていたので、通学時間以外で勉強をする時間は殆ど無くなった。

大学2年の夏、ようやく姉が2回目の結婚に漕ぎ着け、ようやくこれで解放される!と思ったのも束の間、あっという間に姉の化けの皮が剥がれて離婚してしまった。しかもお腹には2人目の子供を身ごもっていた。先に手を出したのは姉なのに、姉の挑発に乗って手を上げてしまい、あれよあれよと言う間にDV加害者に仕立て上げられてしまった2人目の旦那さんには同情しかなかった。

離婚した姉が父の家に住み着き、2人目の子供の出産予定日が差し迫る頃、財布と携帯電話を取り上げられ、自由に外出することを禁じられた。出産費用を稼ぐために姉の監視下で日雇いバイトをさせられ、家事育児で何か1つでも姉の気に入らないことがあれば殴られ罵倒され、眠る時は床の上で寝かされた‥。恐らく私はこの時、重度の鬱状態にあったのだと思う。一体何のために生きているのかわからなくなった私は、姉の目を盗んで逃げ出し、そのまま失踪した。死に場所を探すためだった。

結局死にきれず、姉の支配から逃れられなかった私は、大学を辞めて伊豆や江ノ島の旅館に住み込みで仕事をするようになり、その間もずっと姉に搾取され続けた。そんな生活が一年続いたので、とうとう精神に異常を来して精神科に連れて行かれ、統合失調症という診断名がついた(かなり後になって双極性障害&複雑性PTSDだと判明する)。

それまで一切ノータッチだった母が私の件を含む様々な理由から姉を相手に民事訴訟を起こしてくれたので、姉の直接的な支配がようやく一旦終わり、大学に戻ることができた。復学後はまた母と同居し、精神科外来に通院しながらも、普通の大学生のように自分の時間を趣味や勉強に回すことが出来るようになって本当に嬉しかった。

その後間もなく姉が下の子を育児放棄したので児童相談所が介入し、下の子の親権と養育権は私の母が持つことになった。上の子も中学卒業を目前に姉の教育虐待に耐えられなくなり、自らの意志でこちらに逃げてきた。

私と姉が、もし子供の頃から対等で健全な姉妹関係を築くことが出来ていたら、あんな風に姉から一方的に利用され搾取されるのではなく、お互いが困った時に助け合うことが出来ていたのかなと思い返す。そんな対等な姉妹関係が築けていたなら、姉妹揃って一生物の精神障害(姉は境界性人格障害、私は躁鬱&複雑性PTSD)を患わずに済んだかもしれない。

姉と距離を置いて母のもとで育った姪たち2人の姉妹仲がとても良く、お互いのことを名前にちゃん付けで呼び合うほど対等な関係を築けていることがせめてもの救いだと思う。

姉は今、大阪で行政書士事務所を経営している。本を出版し、メディアにも出ている。何年か前、同業者の組織を相手にトラブルを起こし、姉が怒り狂って相手先に乗り込んでいく動画がYou Tubeにアップされていたのを見てゾッとした(威力業務妨害にあたる行為だと思うのだが、何故か自分の手でアップしていた)。

「私は幼少期からずっといじめに遭っていました。」ネットメディアのインタビューに答える形で姉自身が綴った言葉だ。姉は自分の生い立ちについて嘘をつき過ぎているので、正直どこまでが嘘でどこからが本当なのかは家族でさえ分からない。でも、人の記憶というものは極めて主観的なものだから、もしそこに私の目には見えなかった真実が多少なりとも含まれているならば、姉自身もまた虐待の被害者だったかもしれない。

子供の頃から情緒不安定で、常に誰かを虐げ、周りの人間を攻撃せずにはいられない、本当に不幸な人だと思う。私と姪っ子たちは、姉から物理的に離れることが出来たし、心理的な支配からも逃れることが出来て本当に幸運だったと思う。(これは、ひとえに母のお陰である。)もう二度と、あんな屈辱的な人間関係は繰り返されてはいけない。唯一気にかかるのは、姉のすぐそばで育つ甥っ子の心身の安全だけだ。

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