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別れた女とウイスキー

「あなたは頭で考えたことを話しているけれど、わたしは心で感じたことを話しているの」

午前3時、別れ話の長電話の末に彼女は言った。

「あなたは何が正しいかを軸に物事を考えている。だから仕事では成功したのね。同情や嫉妬や後ろめたさを感じて、後から理由付けをして判断の軸がぶれる人はいるけれど、あなたはそのような感情に敏感でいながらも、惑わされることなく常に何が正しいかを軸に判断してきた。それはあなたが大人になるに連れて身につけた術のひとつだと思う」

僕は黙って彼女の話の続きを待った。24時過ぎから3時間近く話している間に、僕は誕生日に彼女からもらったラガヴーリンのボトルを半分近く空けていた。
彼女と一緒に空けるつもりだったが、電話で話しはじめて数分で別れ話であることを悟った僕は、ラガヴーリンのボトルの口を片手で空けてグラスに注いだ。
最初は水で割っていたが、3杯目からはロックであおり、4杯目からはストレートで飲み続けた。全く酔えなかったのは彼女を失うことを怖れているからだろうか。もちろんラガヴーリンを飲みながら話していることは彼女には黙っていた。今まで彼女に対して隠し事ひとつなく向き合ってきたけれど、別れ話の途中に酒を持ち込んでいることが知れたらすべてが台無しだ。

「でもね、プライベート、特に恋愛では、どうするべきかじゃなくてどうしたいかを軸にしてもいいんじゃないかな」
彼女は僕を諭すように言った。そこにはまだ愛の余韻が感じられた。

「確かにそうかもしれない」
ラガヴーリンというウイスキーは荒々しくも冷徹だ。その相反する要素を兼ね備えた味わいに僕はどうしようもなく惹かれていた。僕が知る限り、彼女はまだラガヴーリンを味わったことはないはずだ。

「正しさという保証がないと不安だから心が感じたままに動くことが怖いのね」
「正しさを軸に生きれば、少なくともナルシシズムは保てるからね」
この先彼女とラガヴーリンを味わうことはあるのだろうか。ならば今からでも飲むペースを抑えなければならない。

「あなたはわたしとどうしたいの」
「別れたくない」
「それは正しさに従っているの、心からそう感じているの」
「両方だ」
空になったグラスに注がれた11杯目のラガヴーリンは、我関せずとその香りを僕の嗅覚に充てていた。

彼女とはある夏の夜に出会った。
僕が仕事帰りにバーに行くと彼女は既に酔っていた。マスターが言うには、彼女はカウンターに座るなりウイスキーをオーダーして、ストレートで飲み続けていたようだ。
僕がラガヴーリンを水割りでオーダーすると彼女は怪訝そうな顔で僕を見た。
「ストレートでウイスキーを飲んでいる女の前でよく水割りを飲めるわね」
聞けば彼女はウイスキーを飲むこともバーで飲むこともはじめてのようだった。当然ウイスキーの銘柄も分からず、マスターにお勧めされたものを順に飲んでいたようだったが、そこにラガヴーリンは含まれていなかった。
僕がラガヴーリンを水割りで味わう横で、彼女はタリスカーをストレートで味わっていた。

その夜の最後に僕がラガヴーリンをストレートをオーダーすると彼女はその日はじめて笑顔を見せて、僕の隣の席に移ってきた。

「わたしもラガヴーリンが飲みたい」

マスターは僕と彼女の前にラガヴーリンのストレートを並べると、意味深に微笑みカウンターの端へと退いた。

結局、彼女はグラスに口を付けることなく酔い潰れて、僕がラガヴーリンのストレートを2杯飲むこととなった。

その夜の成り行きで、僕は彼女を部屋まで送った。
水を飲ませてベッドに寝かしつけると、彼女は唐突にはっきりと僕の手を握った。
「帰らないで、お願いだから」
彼女に懇願された僕には、帰る理由はなかったが抱く理由も足りなかった。真意は曖昧さを残したまま指先が絡み、唇は僅かに触れ合いながら僕は眠れない夜を過ごした。

「そういえば、あたなの誕生日に送ったウイスキーだけど」
「ラガヴーリン」
「そう、ラガヴーリン。まだ残っているかしら」
「まだ、まだ残っている」
嘘はついていないが、鼓動の高まりを自覚した。
「一緒に飲みたかったわ」
「今ならまだ間に合う」
まだ彼女との別れには至ってはいないし、ボトルには半分以上のラガヴーリンが残っている。ここで留まればまだ間に合うだろう。
「どうしても別れたくない?」
「できることなら別れたくはないし、一緒にラガヴーリンを空けたかった」

3時間の会話の中ではじめての沈黙が訪れた。
束の間、喉元に留まったラガヴーリンを僕はゆっくりと飲み干した。喉元が熱くなり再び鼓動が高まった。覚悟を決めるときかもしれない。

「分かった。もうわたしには関わらないで。そしてラガヴーリンはひとりで空けて」

「いや」僕の答えを聞く前に長い電話は唐突に終わり、苦い沈黙が耳に響いた。

途切れた電話の横で僕は何も期待することなく、朝までラガヴーリンを飲み続けた。

目覚めるとボトルには残り2杯分のラガヴーリンが残っていた。
二日酔いもなく冷静な思考と共に、僕はラガヴーリンのボトルを戸棚の奥に仕舞い鍵をかけた。

ベッドで彼女と過ごした日々を思い出すと、僕はどうしようもなく彼女のことが好きだったことに気がつき、それを伝えられずにいたことを今更ながら深く悔やんだ。同時に彼女の意思の固さを否応なく理解した僕は、渇いた喉をあえて潤さなかった。代わりに目元が潤んだがそのままにしておいた。

何もせずに時が過ぎることを怖れた僕はその夜、彼女と出会ったバーに行き、マスターに戸棚の鍵を渡した。

「飲みたいだけ飲めばいいさ」
マスターは理由を聞くことなく、ただ微笑んでその鍵を受け取ってくれた。

それ以来ラガーヴリンを飲むことのない僕の味覚は、未だその味わいを拭えずにいる。

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