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結局今の自分を形作ってるのはいままでの人生って話

私は何かを強制されるのが極度に嫌いだ。
極度というのがどの程度かというと、食事を同席した人が食べ残ししないために満腹なのに無理して食べているのを見るだけでちょっと嫌だ。なんで嫌かというと、経験的にそういう人は半分くらいの割合で暗に相手にも食べ残ししないことを求めるからだ。

転じて、私は自分とは違う価値観を尊重できる人が好きだ。
それは男女関係なく、人の好みとして。
自分は違うけどあなたはそうなのね、でそれをそのまま置いておける人。争ったり、強制したり、逆に断絶したりしないで、そのまま置いておく。
強制されるのは自分が嫌いだから、他人がされるのをみるだけでも不快に感じる。それはその人がその場にいない時の批判でもだ。だから、それをしない人とは安心して楽しく過ごせる。

強制されるのが嫌いなのは、日々の小さなことから、人生に関わる大きなことまでおよぶ。
小さいことというのは例えばこの料理はこの食べ方が絶対にいいよという同席者からの強い勧めくらい小さいことだったりする。ただのおすすめやアドバイスなら全然いい。ただ時にそうしないことを許さない監視付きの強い勧めの時がある。そうなると、その後たとえば友人関係などは続けられても、食事やお茶はもう一緒にできない。
人生に関わる大きなことでいうと、就職や転職などだ。自分がそうしたいと思ったらそうしたいし、そうしたくないと思ったらそうしたくない。人に相談して意見を聞くことはする。でも最終的に決めるのは自分だ。アドバイスしたからと、その後の行動をその通りにするように期待されるのは負担だ。

この性質はどんな経験からきているのだろう。
自分で明確にこれとわかっているものはなかったが、もしかしたら閉鎖的な田舎で育った影響はあるのかもしれない。
私の故郷は田んぼに囲まれた山あいの田舎で、電車が日中1時間に1本1両で走っているような場所だ。
何か突飛な行動をすれば、地域に否定的な噂がまわる。今思えば、目立つことイコール否定的に捉えられることが多かったように思う。自分がどう感じるかどう思うか考えることよりも、周りに合わせて平均的でいることが求められた。無言の圧力がある中で育ったことで、そういった圧力に敏感になり嫌悪感が育ったのかもしれない。

昔の経験が今の自分の土台になっている。
ふと思ったんだけど、それって元彼と違うタイプの人を次に好きになるみたいな話。

書く習慣1ヶ月チャレンジ中。
18日目の今日のお題は「自分が好きだと思うタイプの人」

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