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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  新高教文芸誌汽水域コラム③ 「偽善者」のすすめ】

これもかなり屈折したタイトルのコラムですが、中身は真っ当です(たぶん)。

 若いころは、「募金」が大嫌いでした。人前でこれ見よがしにいかにも「よい人」であるかのように振る舞うというのは偽善的だ、「善行」は人前でやるものではない、などと思っていました。もちろん、ふだんの生活でもそういう態度です。友人たちと話をするときでも、わざと相手の欠点を声高にあげつらったり、きつい言い方をあえてしたりしていました。それを、「わたしは口が悪いんだ」とうそぶいて開き直り、そのくせ、「わたしは口は悪いが、それは相手のことを思ってのことで、本当はよい人間なのだ」ということを言外に匂わせたりもしていたのでした。早い話が、「偽悪者」を気取っていた、というわけです。 

 で、その結果どういうことになったか。といえば、当然ながら、人間関係はどんどん壊れ、友人もどんどん失い、気がつけばわたしをめぐる状況は、たいそう困ったものとなってしまっていたのでした。 わたし自身、孤独が好きなわけでもなければ人から憎まれることを愛好していたわけでも決してありません。ただ、「偽悪者」というスタイルが格好よい生き方である、と思い込んでいただけなので す。しかし、その結果があまりにとほほな事態を招いたため、わたしはやむなくこれまでの生き方を総決算し、反省する必要に迫られました。自分のどうしようもな い過去を、振り返りたくはないのですが振り返り、叫び出したいような恥ずかしい記憶のフラッシュバックに耐えながら、なんとか世の中でやっていける人間になろうと修正を重ね、とりあえず今日までたどりついています。 

 で、今は思うのです。「偽善だっていいじゃないか」と。たとえそれが、安普請な自分をその実態以上によく見せたい、というつまらない虚栄心や、自分の利益だけを考えたあさましい利己心からの振る舞いであっても、そのことで世の中が多少なりともよくなり、困難を抱えた人のためになるのなら、それは結果としてみれば立派な「善行」です。心の中なんて見ることはできません。たとえ腹の中でどんなどす黒いことを思っていたとしても、エスパーでもない限り他人にはわかりません。だったら、「偽悪者」として生きて、買わなくてもいい恨みを人から買うより、「偽善者」でかまわないから世のため人のためになることをして人々から褒めそやされるほうが、楽しい人生になるに決まっています。褒められてうれしくない人はそういませんから、「善行」 を繰り返すことにもなるでしょ う。するとそのうち「偽善者」だったはずの人が本物の「善人」になる、ということだってあるのではないでしょうか。 

 東日本大震災で、多くの芸能人や有名人が多額の寄付を寄せたり、救援ボランティア活動を行ったりしています。そのことを「売名行為だ」と冷ややかに見る人もいるようです。でも、いいではないですか。その「売名行為」が、 今現在苦しんでいる人々を救うための一助となるのですから。そういう意味で、「偽善」もまぎれもない「善」である、とわたしは思うのです。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」3号 2011年4月発行 より】



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