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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  オブさん文芸部エッセイ④ 居候とともに「サロン文芸部」(上)】

M高校文芸部シリーズの4本目。おヒマな折にでもお読みください。

 以前書いたとおり、高校時代は、個性的な先輩方の下で文章修業(というよりは文芸部修業)を続けてきたわたしも、当然のことながら月日が経てば進級していったわけで(なんであんなひどい成績で進級が認められたのか、全くもって不思議なのですが)、気がついたら三年生、つまり、わたし自身が「先輩」と呼ばれる立場になっていました。人間的には全く成長しなくても、時間というのはそんなことに全く無関係に過ぎ去っていくものだと、当時を振り返ると感慨深いものがあります。
 わたしが通っていたのは、昭和大橋のたもと近くにある県立M高校です。わたしの入学当初のM高は、一九三九年(昭和十四年)に創立した当時のままの完全木造校舎だったのですが、床がきしむ、雨漏りがする、すきま風が入り込む、汲み取り式の女子トイレからアヤシイ手が伸びてくる、等々老朽化が著しく(そのせいか、女子の人気はまるでなく、ほとんど男子校状態でした)、古い建物を順次壊して新しい鉄筋の校舎に改築するという作業が、わたしたちの入学の半年後から進められていました(すると、翌年から女子の入学者数が増えていきました。完全新校舎となった現在は、女子が過半数を占めるまでになりました。うらやましいじゃないか)。文芸部室も、旧校舎の階段下の小部屋だったのが、そこの建物も取り壊され、あちこち流浪を重ねることとなり、わたしが三年になった頃には、最後に残った旧校舎の元教室をを半分に仕切った部屋を、部室としてあてがわれました。ちなみに、もう半分は地学部室だったと思います。もちろん、近い将来取り壊される運命の、ほんの一時期の仮住まいではあるのですが、これまでの部室から比べれば、その広いことといったら段違いです。そんなわけで、高校生活最後の一年を、わたしはその部室で過ごすこととなったのです。

 最上級生となったわたしは、広くなった部室に大喜びです。家からギターを持ち込み歌を歌ったり(いわゆる七十年代フォーク全盛の時代でした)、先輩方から受け継いだ〝伝統〟のトランプゲーム「大貧民」に興じたりしていました。新入生も三人ほど入部し(文芸部で三人も部員が入部するのはけっこう大勢な感じなのです)、部室に行くのが楽しくてしかたありません。教室では、ほぼすべての授業で〝睡眠学習〟をしている完全な〝落ちこぼれ〟のわたしでしたが、そんなことは全く気になりません。わたしは毎日、文芸部室に行くために学校へ通っていたのです。(つづく)

新潟東高校文芸部誌「簓」第5集(2007年8月27日発行)より

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