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満たされるために、さびしさを選んだ。〜ポリアモリー恋愛小説「きみだからさびしい」を読んで〜

「ただ好きなだけなのに好きと苦しいが近くにあるのはどうして?」


恋愛をしてきた全ての人が一度は持つ感情なのではなかろうか。

愛が深ければ深いほど、憎は肥大化し我が身を蝕む。

真っ黒な気持ちを自分の中だけで完結できず、

好きな気持ちが大きいほど、酷いことを言ってしまう。

凶器のような言葉が制御できず口走り、歯止めが利かなくなる。


「きみだからさびしい」という本を読んだ。

ポリアモリーの恋人を好きになる男性が主人公の物語。

物語としての結末に100%の納得はできていないし、ポリアモリー当事者として違和を感じる部分もあったけれど、繊細な感情の解像度が高くて、丁寧だった。


主人公の圭吾は、少し異質な存在である。どこにでもいる若い男という訳ではない。

誰でも好きになれるタイプではないし、きっと彼は人を好きになる気持ちを自分では気づかぬ間にすごく大事にしてきたんだろうなと思う。


圭吾が好きになってしまった女性が、あやめ。


ランニングで出会い友人関係からはじまった二人は、お互いに好印象を抱きつつも

距離感を壊さぬように気持ちは告白しなかった。

しかし、圭吾が意を決して伝えたあの日。


「私さ、ポリアモリーなんだけど、それでもいい?」


この言葉から、圭吾の甘美なる地獄の日々が始まるーー。



わたしはポリアモリーなので、以下、3点の着目点から

当事者としての考えをまとめてみる。



■ポリアモリーと主従関係

ポリアモリーとして今まで、わたしを愛してくれる人たちの気持ちを想像し

傷つけないようにしようと注意してはいても、おそらくいろんな人たちを傷つけてきたと思う。

相手もポリアモリーであれば、きっと自由に他のパートナーのことを話せるけれど

そうでない場合のコミュニケーション方法はとても慎重になる必要があり

それは自分が選択した恋愛を全うする上での責務である。

また、圭吾とあやめのような関係性であれば尚更、アンバランスのように思う。

物語の終盤、圭吾の「他に付き合ってる人、いるんでしょ」という質問に

あやめはこんな言葉を返す。


「まあ、いるね。でもそれは、いったじゃん私。好きになるのがひとりだけじゃないかもしれないって。それ知ってて君は私のこと好きなんじゃん」


ポリアモリーとモノアモリー。恋愛観が異なる二人がいて、お互いを好きであるという事実がある。

だがその事実は、それぞれで見え方が異なる。

このあやめの言葉は至極真っ当だが、見方によっては圭吾を従属させているようにも思う。


わたしの場合、二人でいるときは目の前の相手のことを100%愛していれば

関係として成り立つと思い込み、自分のパートナーへの向き合い方を肯定しようとしてきた。


この論争自体を集結させるための鍵は、この本では直接的には語られない。

そしてわたしも未だにどういう解決方法があるのか、わからない。


ポリアモリーはポリアモリー同士でしかお付き合いができないのではなかろうかとも思う。

モノアモリーのパートナーがどれほど理解し受け入れられるかによる。

あやめの内なる猟奇性や「自由」を問いつづける姿にも物凄く共感できるが、圭吾の視点で読み進めるとやはりどうしても残酷だなと思った。わたしはあやめの視点しか持っていなかったため、もしかすると好きな人の好意を搾取していたのかもしれないとも思った。


恋愛観が異なる時点で、対等なパートナーシップを結ぶのは非常に難しいことだとわたしは考える。

いくら、1対1になったときにお互いを愛しているとしても、そこにはどうしてもモノアモリーの「好き」の搾取が発生してしまうのではなかろうか。

ポリアモリー当事者が、自分に嘘をつきたくないというのはある種言い訳で、

自分の「好き」という感情を愛する人に押し付けて、それにより傷つく人がいることをちゃんと受け止める必要がある。


「好き」という感情は、なかなか生まれるものではないので貴重だ。

そして愛したいと思える人がいることは、幸せなことだ。


でも、そもそもの恋愛観が違うと、見方によってはとても残酷にもなりうる。



■「付き合う前の方が、もっと相手のことを考えていた。」誰もが通る登竜門。

わたしは恋愛をする時いつも、触れてしまうとこれ以上近づけないのではないかと不安になる。

触れる前の方が、相手を想っている時間がよっぽど長いように思うし、少しずつ近づいていける喜びがわたしにとっては幸福なのだ。

なので、触れてしまうとお互いの隠していたものが、ダムのように流れでてしまい恋愛のペースが狂う。

熱しやすく冷めやすいわたしは、一度触れてしまうと麻薬漬けになったように感情を理性的にコントロールできなくなり

文字通り身を焦がすほど恋患う。そして辛くなる。負の連鎖なのだ。


いつかこの関係に終わりが来ることがわかっていて、自分が辛い思いをすることもわかっているのに、

それでも、最終的に触れることを選んでしまうのはどうしてなのだろう。

何度同じことを繰り返しても、学ばないし、学ぼうともしていない。

友人でいられればきっと楽だったのに、一線を越えなければお互いに幸せだったのに。


物語の中でこんな台詞がある。



「体が触れ合うっていうそれだけで自分のなかにあったなにかが消えてしまった気がする。それがたとえ大事なものだったとしても、このよろこびに敵うわけない。」



「足るを知る」というが、本当にその通りだ。

自分の中で消えかける何かがあることに気づきながらも、触れたくて仕方なくなる。探究心・好奇心が、理性を優に超える。

どうしてこうも人間は強欲なのだろうか。

そんなの決まっている。

触れてしまった時のあの悦びをこえる感情に、今まで出会ったことがない。

この快楽を味わえる恋人フェーズから、家族フェーズにスムーズに移行できれば

人生のパートナーになれるのかもしれない。


そう思うと、わたしの場合はまだまだ先行きが長い。



■「好き」の形はそれぞれ、合致してもしなくても一緒にいることはできる

産業革命〜技術発展、高度経済成長で物質的にも金銭的にも、人類は豊かになった。

人口を増やす≒子どもを産み、育てるというプロジェクトが、必須ではなくなった現代社会において

恋愛の形が多様化するのは当たり前だ。少子化も当たり前だ。

だって今のわたしたちには、ありがたいことに選択肢があるから。


わたしはポリアモリーであることに気づいてから、なんとか自分の中でこの感情を封印しようと努めた時期もあった。

それでも、自分の複数人に向かう好きという気持ちは制御できなかったし、たった一人に絞ることが正しいとは思えなくなったのだ。

むしろ、お付き合いする人それぞれにすてきなところがあるので

そこを尊重して共に生きていきたいと強く思う。

相対的な比較ではなく、二者間になった時に相手をどれだけ強く想っているか、

大事なことはそれだけだとわたしは思うのだ。


でも、この選択をすることには責任もリスクも伴う。

他にパートナーのいる相手がわたしから離れていき

この先自分が孤独になってしまう可能性だって存分にある。


ポリアモリーである限り、いまのわたしのさびしさはきっと埋まるものではないし

だからといって一対一のお付き合いをまたやることには恐怖もある。

だから、ずっとこの穴は空いたままなんだろうなと思う。

それでも時に信じられないくらい満たされる時がある。


芥川龍之介が残した言葉、

「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。しかし重大に扱わなければ危険である。」


たった1本のマッチの炎でも、ろうそくに火をともせて、花火もできる、でも、火事をおこす可能性もある。

それでも。ろうそくの灯火を見られる人生なら、

わたしは今の自分の恋愛観を大切にしたい。というか、そうしてしか自分の恋愛を肯定することができない。



「そのさびしさを選んだんだよ。ちょっとさびしくなったかわりに、それ以上に満たされるようになった、みたいな。」



この言葉が忘れられない。

わたしは今まで、さびしさを受け入れてでも、どんなリスクを侵してでも、

満たされることを選んだんだなぁと。

わたし、めっちゃ逞しいなぁと思う。


でも。27歳になり、

このさびしさにこれからも一生耐えられるのかは正直危うくなってきた。

まあでも、未来のことは考えてもわからないし。


今この瞬間、自分を幸せにできる選択を、

わたしはこれからもするのだと思う。


自分の恋愛を振り返り、素直に反省させてくれる

すばらしい作品だった。


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