坂口恭平『いのっちの手紙』を読んで
精神科医・斎藤環先生と坂口恭平さんの往復書簡をまとめた書籍『いのっちの手紙』。
坂口恭平さんは、文筆、音楽、絵画などマルチに活躍する方。かつ、自らの双極性障害にうまくアプローチしている。その秘訣をめぐるやりとりをまとめたのがこの本だ。
この本を手にとった理由は、双極性障害の当事者と、精神科医がどんな言葉を交わすのかが気になったから。時々行き過ぎたダウナーになってしまう自分への処方箋としたかった。しかし、坂口恭平さんの「躁鬱」克服と切っても切り離せない「創造」の話がとても興味深く、図らずもわたしのワナビークリエイター的な態度が紐解かれることとなった。
発刊は2年前で、実はようやく読めた。なぜなら、実感を伴って読むのが難しく進まなかったから。でも、ちょっとは意味がわかったような気がしたので、ここにまとめておこうと思う。
坂口恭平さんの健やかさの秘訣は「創造」だ。毎日欠かさず原稿を書き、パステルを描いていらっしゃる。
坂口さん曰く、創造が停滞すると鬱っぽくなる。鬱は、エネルギーの使い所を間違い始めたときに作動するアラームのようなもの、だと。
創造の源はなんだろうか。意外にも「内的必然性から創作をしている、ということはない」そうだ。「これ誰かに見せないとなると、多分作らないよな」と思うとのこと。
巷では、内的必然性こそが創作を生むと思われている。偉大な作家や画家には、こだわりや譲れないポイントなど=我執をエネルギー源にして「つくる」ことをやめない人がいる。また、なんと、「自分には闇=我執がないから」とアウトサイダーでないことを残念に思うクリエイターもいるらしい!
それほど、創造の源を我執と考える意見は根強い。「いわゆる作家性というものこそが、我執の表出なんじゃないか」「私の知る創造の営みとは、「いかに我執を飼いならすか」のプロセスなんです。」と斎藤環先生も意見を綴っている。
斎藤先生は、我執は自己愛の表現型だとおっしゃる。これまで精神医学では「我執によって苦しんでいる人に我執を捨てろというのは『死ぬのが怖い人に一回死んで見れば怖くない』と言うくらい身も蓋も無いことだ。我執を捨てろとは言ってこなかった」と(意訳すれば)述べていた。
それゆえ、「恭平さんはいとも軽々と、別次元の創造性を見せてくれた。我執とは無関係の場所に立つことで、途方もない創造性が発揮できることを示してしまった。」ことに驚いている。坂口恭平さんの我執のなさは特異なのだ。けど、きっと、そこにヒントがあると思う。もう少し注目してみたい。
坂口さんは、我執のなさについて下記のように語る。
と語っておられる。
強引にまとめるとしたら、我執に呪われたトレードマーク的自己模倣=ひと呼んで作風を創造することを、半分意識的に半分無意識的にやめている。それは、自己模倣が「その思考の時空と触れた瞬間のまんま」に反していて、退屈で、鬱になるからだ。それを坂口恭平さんは「流れる」と表現していた。
なにによって創造は駆動されているのか。それは「流れる」ことへの喜びだ。鬱によるアラートによって、絶えず「流れ」が滞ってないか意識される。流れている状態は幸せである。こうして創造が続いていく。
我執がないからこそ、「究極の真理とかゴールとかに執着せず、変化のプロセスを大切にして、今この瞬間に没入する姿勢」で「この時間にしか存在しない、思考がいる、思考という空間がある、思考という時間が流れている。そこに身を委ねて、駆け回る」ことができているという。
エネルギーが流れている喜びに従って、創造を毎日やることがヘルシーな自己愛。
日課の効能は『躁鬱大学』でも何度も語られてきたものである。創造が日課になることで、日々創造を流れさせることで、自然に上達していく。そして、変わってしまうことが当たり前になり、変化への恐怖心もなくなる。自己模倣がなくなる。表現にとっても良い事づくめだ。
自分の読解力不足で「流れ」をどう読み取るか、「流れ」とはなんなのか、まだ言葉で説明することができない。それはこれからの課題だ。
でも、創造の向きにエネルギーが使えず滞っているときに鬱になる感覚。それはあまりにも明らかに"わかる"。作らないと気持ち悪くなる、としか言いようがない。
自分は双極性障害と診断されてはいないが、躁鬱人の要素は持ち合わせているのかもしれない(『躁鬱大学』も強く共感しながら読んだ)。
あの気持ち悪さを無理に我慢するのではなく、そしてその感情に圧死させられるのではなく、とにかく手を動かして、動かして、「流れ」に再び合流できるように気をつけて生きていきたいと思う。
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