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お守りを選ぶって神様を選ぶみたいだ

いつの間にか神様を選ぶようになった気がする。

「俺か俺以外か」じゃなくて、

心穏守か仕事守か。

神社のお守り売り場で淡い色をまとった「心を穏やかにする」お守りと、概念も抽象も感じられない「仕事」守というお守りを並べてどちらを買うか私は迷っていた。

「どっちも買うのはダメなのかな〜」
「神様が喧嘩するっていうよね」

友達に諭されながら、右手にふたつ収まってしまうほどのコンパクトなお守りを見つめて、私は今どちらのお守りを買うべきか決めかねている。

神様と私。
どちらかといえば私は選ばれる側であるというのに、私は神様を選ぼうとしている。
そして決めきれないと嘆く。
傲慢か、傲慢以外か。なおだ。

どーちーらーにしようかな、天の神様の言う通りッ

まるでじゃんけんで出す手の形を選ぶときみたいじゃんか。本当はどちらを選んだとて勝つ確率は変わらない変わらないというのに。お守りを選ぶことに関しては誰かに「勝つ」とかないのに。
神様の裁量で私はこの世で生きていいとされた人間であるということだけで、本当は十分なのに。

♪これだけで十分なのに(BASI) なのに。

一般的な大学生してたらきっとお守りを選ぶ選択肢に仕事守なんて入っていなかっただろう。
心を穏やかにしていなければ仕事はできないけれど、仕事ができなければ心が穏やかにならないのも事実だ。これが二十歳のおだの知見。
そして、そんな浅い思い込みからくる心の迷いのせいで、お守りを買い終わった後に降りる、神社の石段の高さがいつもよりちょっとだけ高くなったように感じられる。膝ガクンガクンしてるよ。

数日前、
「今日でテストが終わる!」
とメッセージを送ってきた友達に

「お疲れ様!」
のスタンプを送った私。

そうじゃない、そうじゃなくてさ
私が返すべきだったのはきっとそんな、熟年夫婦みたいな単調な会話のマニュアルにある言葉なんかじゃなくてさ。

彼女に送るべきなのは「会おうぜ!いつカレー食べに行こっか?」
なんだよね多分。
もっと言うと、行ってみたいカレー屋さんの食べログのリンクなんだよね。

大学生の「テストが終わる!」イコール「明日から休みだから会おーよ」だろ。 ばか。


心穏やかでないぞ、おだ。
世間の二十歳とズレているぞ、おだ。
日常のふとした瞬間で、もし私が世の中の大多数に入っていたら的思考をついやってしまう。小学生の時からずっとだ。

大学生をしている20歳 
お金を稼ぐことに必死な20歳

このズレは、一般的な20歳の学生が曜日を認識するために見ている授業カリキュラムを、たまたま私が持ち合わせていないから生まれるものだ。
正直一定周期を持ったカリキュラムが存在しない時間が日常に流れていると、今日が何曜日かなんて、そこまで考える必要がない。
大事なのは「何日か」ということで、それが私にとっての期日が迫るタイムリミットを計るものなのだ。
結局のところは、タイムリミットに生かされているってわけ。


20歳の学生がお守りを選ぶ時、買う時。
彼らが手にするのはどんな神様たちなのだろう。
私には生涯知ることのない世界。

私が買ったお守りはまだ、袋に入ったままだし、あのお守りに潜む神様は、私に選ばれて嬉しいのだろうかということばかり私は気にしている。
そうやって、神様に変な優しさをむけてみるけど、かえって居心地が悪い。
優しさは意図的に向けるものでもないというけれど。

お守りを選ぶなんて、神様を選ぶみたいだ。

今はお守りにすがるくらい、本気で生きている気もしなければ、生きる上で、もうすがるしかないという極限の精神状態でもない。
「おだ」を好きだと言ってくれる人がたくさんいるこの奇跡みたいな日常で。私はこれ以上に何を欲しがっているんだろう。
彼らは、みんな神様が支配するこの広い星に住む私のご近所さんなのだ。

どんな形であれ、一人でも私を愛でてくれる人がいるというだけで、神様を選ぶ必要はどこにあるのだろうか。

バッグの中で紙の袋に入ったまま、ガサゴソと揺れるだけの「仕事守」。私は神様から選ばれる側のはずなのに、神様を選ぶということをして、かつそれら偶像の扱いになんて無感情なんだろう。
私は神社から遠ざかる石段を降りた。
記憶では駆け足で登った石段を。

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