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「すみません」を言えば済む話なのに、私はずっとそれが言えない。

どれだけ間違えても、ミスをしても、人を傷つけても、あれよあれよという間に1日はすぎる。
頑張って浴びたシャワーも頑張って塗ったリンスも、力尽きた私のせいで、ドライヤーをしなかったせいで.......ツヤツヤの陽キャ頭はバサバサ陰キャになる。
がんばりたかったわけだけどね。
コラム、note、その他全部の書き物が溜まる一方なので、そんな不規則な、日本人の平均よりはちょっと不健康な生活をしてます。


迫る期日。
迫る31日。
今月に限っては迫る大晦日。
「ああもう今年が終わる〜」っていう一定のムーブ、あれで騒ぐことで、相手の時の流れに対する感じ方を探っているような気がする。
私はこの1年心置きなく過ごせたからまた来年頑張ろうと思っているけど、あんたはどうなのよ。本当は焦っているんじゃないの。と。

結婚を急かす嫌な親戚みたいだ。

去年までは私は毎年そのムーブメントの渦中にいたけど、今年は学生という身分を捨て去ったからか、今後一定の速度で変化が訪れることはもうないとわかっているからか、1年ごとに自分がまた何者かになってしまうという脅迫観念がまるでない。迎えようとする年の瀬も観覧車が1周を終えた時のように見守れている。
街のキラキラする灯りを見ては、クリスマスってまだ終わってなかったんだ。くらいには思う。

街の灯りを見ては感じることは、クリスマスに限らず毎月同じで、

「今月抱えてる書き物いくつだっけ」

である。天神駅の改札から見える、市役所前のクリスマスマーケットの輝きを見ながら、書くことの終わりが見えないことに、この前膝カックンされた。

おい、足下見てなかったろ

的な。
信頼できる上司的な。

やめてくださいよ、先輩〜
みたいなノリで返せる余裕も今はない。

やめてください。まじで。


なのだ。こちのトーンはさ。
何もごっくんできない。
つばも人の言葉もまずいご飯も。
ごっくんすればするほど頭がズキズキする。
書かなければ、終わらないけど、書けば終わる。
正直椅子に座れば言葉は浮かんでくる。
朝起きたら、言葉がまず降りてくるし、動いたら体の神経がどこかしら反応して、言葉がぽっと芋づる式に出てくる。出てこない時はずっと音楽が鳴ってるから、歌詞を拾って考えることもある。そうすることで文章が何かしらの形を成すようにはなる。

けれどどうしても、朝最初に思いついた言葉で1日のモチベが変わるから、同じ1日なのに、満足感も充実感も変わる。
書きたくない時は本当に椅子に座るのも自分の部屋に行くのもダメー。とトムブラウンみちお。

だから「毎日」は連載漫画のように見えるけど、全部全部違う方向をむいている。同じギャグ漫画だけど、ジャンプか、コロコロか。くらいちがう。
自分の体内が詰まってくると、違う世界のものを受け付けなくなる。意見、言葉、思考。
私は今、何も飲み込めてない。
基本飲み込みは早いが、飲み込むまでが疑念にまみれて咽頭が詰まる。我ながら腐った咽頭を持って生まれたなと思う。
うまく飲み込めない私だから、大きな鯨には飲み込まれる。長いものに巻かれようとする。バカデカイントウクジラめ。

進まない原稿を前に、言葉のストックが0になったことに気づいていない、もはやまだストックありますよという顔で、擬音語を多用している今。
書けない書けそうもない。
遂行せず、推敲せず、このままゆっくりゴロンとなろうともしているのだけれど。
どうしても書けない時、それなりの対処を施すようにはなった。

あがり症が発動した時に念仏のように唱える言葉

「仏の心」
「私が幸せだったら、周りも勝手に幸せ」

で。
私が馬すぎて、念仏も効かない体質のときは、明治神宮で買ったお守りに書いて入れた「私の幸せが広がりますように」が財布に常に入っているので、ぎゅっと財布を握りしめる。

それでも書けない時は、いかに自分が恵まれているかを思い出す。
でもこれは最近の私にはほぼ効き目がないわね。その日1日の幸せだったことを思い出して書き留めたりしても、書いていることは「今の私は幸せなんだよ」なのに、書いてる私は幸せを忘れている私なんだから。いつもいつも心とペン先についたインクがバラバラだ。

「書かなきゃいけない」が難しい時は、せめて今晩最大限できる極上の睡眠のためだけに書きたくて、幸せを思い出して書き留めることなんてしたくない。
正直、パソコンで文章を連ねることができない私は、紙の上でしか書けないからそれを打ち直すのが面倒くさくて、そして別に誰かのために書いているわけじゃないから、このままどこにUPする必要もないな。と自ら産んだ稼ぎ口を自らの手で封じ込めようとすることだってある。
変なところで嘘をついて、逃げるタイミングも変になって。
前を歩く人たちの隙間が空くまで、後ろから漸近線で圧をかけて、等速で歩くような私なのだから、思った以上の人々に心配されるのも無理はない。
「すみません」を言えば、済む話なのに、私はずっとそれが言えない。

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