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「服が変だ」という意見を素直に聞けないおではガキンチョなり

一着30万円のカードキャプターさくらモチーフのドレスを数十着CHANNELで爆買いチャンネルしてる友人が夢に出てきた。ルンルン買い物してたけど、全然似合ってなかった。でも人の「可愛い」という価値観は大事にしたいので、夢の中でそっと見守ってたらいつの間にか目が覚めた。

私も自分の「可愛い」が人と共有できなかった経験ってある。だから↑のような夢をみたのだろうか。

クリスマスに可愛い服が着たくて、選んで着て行ったら、

「クリスマスツリーみたいだね、カラフルな色使いだけど、横で歩くのが少し恥ずかしいよ」

と笑いながら言われたことがある。
日常でも、可愛いと思って選んだ服を着て行って、
「なんか今日の服装、下はジーンズとかで良かったんじゃない?」
と言われることもある。

自分は可愛いと思って着ているものが、変だと言われるとこんなにも落ち込んでしまうのか。
だけど友達は変だよと気づかせてくれているだけでおかしいのは私の方であることは承知している。

変な服装をしてしまうのはどうしてだろう。
「可愛い」には人それぞれの「かわいい」があることを理解しつつもなぜ自分はこんなにも落ち込んでいるのだろう。
ずっと考えていたが一つ気づいたことがある。

私は「可愛い服が着たい」のではなくて、「服で自分を可愛く見せたかった」だけだと。

私は可愛いと思った服を選ぶだけで、全体的にコーデとして成り立っているかという視点では自分が見えていないから、チグハグなクリスマスツリーになっていた。(言わずもがなだろうがw)
そして友人のアドバイスに心痛めるのも、自分の中ではかわいい服を選んで可愛くなっているつもりだからそれでいてじぶんの思うかわいいという価値観を否定されたように感じるからなのだと。
私は「服で自分を可愛く見せる」ことが目的でそのための手段として「かわいい服を着る」ということがしたかったのだ。
目的と手段を履き違えていたらしい。

そして、こんな風にも思う。

私が【目的】と【手段】を履き違えるのは、「楽しそうで簡単そう」の誘惑に負けるからではないかと。

可愛い服が着たかったのならば、可愛い服を着るだけで目的は達成できたことになる。それは私にとって簡単で楽しい。
けれど、「服で可愛く見せたかった」のならば、自然と可愛く見せるためのやるべきことが可愛い服を着ること以外にも発生していた。
ここでいうやるべきことは、服をあれこれ試して、「自分が可愛く見えているのかどうか」あれこれ試してみること、になるだろう。
その試すこととやらが私にとってはただ面倒くさくて億劫なことになっていたのだ。
だから、私は楽しくてかつ達成しやすそうな「可愛い服を着たい」を目的として潜在的に選んだのだと思う。本来の目的とは異なるのに。

仕事もそうだ。

良いことが書けたと思って人に見せたら、
「何書いてあるかわからない。もっと分かりやすい言葉で書いて」
と言われて数時間落ち込むことがある。

きっとそうやって、本来はありがたく受け取れるはずのアドバイスに落ち込むのも

私が本当にやりたかったのは、良いことを書いて読んでもらうことではなく、「良いことが伝わる文章を書くことである」ということに気づけていないから。

だから自分の中では「いいことを書き、読んでもらう」という本来から外れた目的であってもそれを果たしているという達成感とは裏腹に、「分かりやすく書いて」というアドバイスも単なる否定のようにしか聞こえない、そんな矛盾を抱えるのだ。

良いこと書いてるのに、なんで伝わらんとよ

...と。
そして、あまりにも落ち込むから、思考が止まり、手が止まり、全体として何も進まなくなっているのだ。
落ち込むことで人は己の未熟さに気づき、成長できるから、完全には無くなっては欲しくないけど、極力無駄に悩む時間だけはなくしたい。「落ち込む」と「悩む」は別だ。

そして何が言いたいかって、人からのアドバイスが否定に感じる時は、大抵自分がやりたくて簡単にやれそうなことが目的となっているのだ。そしてそれは相手と自分に共通する目的ではない。言ってしまえば自己満。だけどそれに気付けていない。
それで自分の中で矛盾が生まれ、モヤモヤが溜まるのだ。

他にももっとあるだろうな。

目的と手段を履き違えていること
人と目的を共通させるべき時に共通させていないこと

好奇心だけで生きていると言われる私だけど、この好奇心もっと良いように使っていきたいな。そうすれば、きっと人からのアドバイスにも今よりは真っ直ぐに受け入れられるはず。今よりは大分生きやすくなるはず。


これで私もおしゃれ魔王なんだ。


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