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考えなしに「考えろ」を受け入れる是非について考えよう

娘は大人(特に私)の言うことを素直に聞かない、という前振りの続きから。

娘はスイミングを習っている。ある時、娘は同じクラスで習っている他の人の生徒が、自分よりも年下であることに気付いたようだった。ちょっと前まで鼓膜にチューブを入れていて、習い始めるのが遅かったのはある。それを差し引いても、進級は遅いように思える。

得意でも苦手でも、好きでいてくれたらそれでいい。でも、学校の授業にも出てくるもので、苦手だけど好きでいることは難しい。得意に越したことはない。

ある時、娘に「大人の言うことを素直に聞いてやってみれば、早く上達するよ」と言ったことがある。その返答がパンチ効いてた。

「担任の先生は『自分の頭で考えろ』と言ってた」

典型的な「ああ言えばこう言う」返しで、イラッとするのが普通の大人の反応だと思う。私もイラッとした。同時に「あ〜、子供の頃は私もそんなこと言ってそう」と感じた。ノータイムの切り返しとしては頼もしい。

よくよく考えるとパラドックスになっている。「『自分の頭で考えろ』という考えを、考えなしに受け入れてしまう是非について考えてみよう」と促した。

娘はめんどくさそうにしていた。そもそも、考えるのはめんどくさくて体力のいることだよ?とだけ伝えた。続きは私が考えることにしたので、打首獄門同好会でも聞きながら気軽に読んでね。

子供もいろいろ言われて苦労していそう

ノータイムで「自分の頭で考えろ」を返せるのは、常日頃から大人にあれこれ言われて「どっちやねん!?」と思っていたのだろう。

大人なんて都合のいいもので、ある時は「自分の頭で考えろ」と言うくせに、ある時は「素直に言うことを聞け」と言う。

硬くて噛み切れない肉のように、モグモグ咀嚼し続けているので、すぐに吐き出すことができたのかもしれない。そう思うと、娘は意外と大人の話を真剣に受け止めていたのだなぁと見直す。

考えることは逆らうことではない

「自分の頭で考えろ」はゴモットモなようで、いざ実践してみようとすると何をどう考えるのか落とし込めない。少なくとも娘は、どう考えてよいかハッキリとは言えないようだった。

娘は、言われたことを素直に受け入れることと相対化して、言われた通りにやらないことを「考える」と捉えている節がある。違う。そうじゃない。

私は、クリティカルシンキングのようなイメージで捉えている。クリティカル=批判という語感から、相手の主張を打ち負かすように聞こえてしまう。実際のところ、大きくイメージが異なる。

石橋を叩くように相手の主張を検証し、叩いて割れなかった時にはより強く受け入れることができる。つまり、主張を受け入れるための建設的な営みである。

机上検討と行動のどちらをとるか

「自分の頭で考えるのは良いことか?」を問うと、おそらく10人中の10人がYESと言うだろう。そんなものは考えるに値しない。

環境問題でも何でも、議論になるのはコストに見合うかである。この話の場合、考える時間がコストにあたる。大人の教えをすぐさま行動に移すのと、その前に机上で考える時間を設けるのと、どちらの方が早く上達するのか問題を考える。

私の結論としては、言われた通りにやる方が短期的には近道だと考えている。理由として、机上で練習法を吟味できるだけの前提知識がないこと。まずは行動してから試行錯誤でやり方を補正するしかなく、見込みのある初期値(大人の教え)を選ぶのが最適化の定石とも合うこと。例え自分の頭で優れた練習法にたどり着いても、車輪の再発明である可能性が高いこと。

長期的に見れば、自分で方法論そのものを編み出す能力は武器になる。でもそれは、最先端の誰も教えられない境地に辿り着いてからでいいんじゃないか。

それまでの間は、巨人の肩に乗るつもりで素直に教えを行動に移す。そして、それがなぜ優れた方法であるのかを後から批判的に考える訓練をすればよい。そうすれば、誰も教えてくれない境地に辿り着いても路頭に迷わない。

それって守破離だよね

私が自分の頭で考えたつもりの内容は、巷で言われる「守破離」を「車輪の再発明」したに過ぎなかった。でも、考えたことを通して、より「守破離」が受け入れられるようになった。

ここまで考え廻らせてから、また娘に話してみようと考えている。

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