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あしたのジョーの元ネタ?大江健三郎の小説、「日常生活の冒険」に登場のボクサー”金泰” 

先日記したホアヒン旅行記から当時を思い出し、久しぶりに読み返した小説「日常生活の冒険」に、フィクションであるが印象に残るボクサーが登場しており、このブログのコンセプトである、タイの格闘技とは関係ないが、ここで紹介したい。


大江健三郎の「日常生活の冒険」

この小説は1963~1964年に文芸誌「文學界」にて掲載されていたらしい。この作品は大江氏の作品群の中でも地味な存在で「われらの時代」「万延元年のフットボール」「個人的な体験」などに比べると、あまり知られていないのではないか。

登場人物のボクサー「金泰」について書かれたものは眼にしたことがなく、また古いボクシングファンにこの作品の存在について、知っている人もほぼ出会ったとはないので、このブログで取り上げたいと思ったところ。

著者は20代の頃に大江氏の作品を愛好した時期があった。そして、それらの作品は東南アジアなどへの旅の友でもあった。インドのバナラシ―で体調を崩し、療養生活をしている際にガンジス川が見える宿で作品群を読んだ。暇を持て余したバンコクのカオサンロードの宿の屋上で干された洗濯物の影に座って大江作品を読んでいた記憶もある。

この「日常生活の冒険」は旅中、どこの街で読み終えたのか覚えていないが、内容は冒険的な生活をおくるカリスマ的な親友と、それを羨ましく見て、そうやってみたいと思うが成し得ない主人公(大江の分身)という構図があった。

そんな冒険的な生活をおくるカリスマの取り巻きとしてボクサー、金泰は登場する。

ボロボロになった著者の「日常生活の冒険」

在日朝鮮人の港湾労働者の家に産まれた金泰は、父親に反発し貧しい実家を飛び出して、ボクサーを目指す。彼がまだ14歳の時にジムで主人公の親友でありカリスマ的な魅力を持つ、斎木犀吉と出会う。ジムでのスパーリングで犀吉は金泰にKOされる。ちなみに犀吉は、若き日の伊丹十三(大江健三郎の妻の兄)がモデルだという。

その犀吉はプロボクシングで、4回戦ボーイとして活動していた。金泰にスパーリングでKOされたのもあって、犀吉はボクサー夢は諦めて映画俳優の道へ進もうとする。しかし、ボクシングジムで覚えた技術を使ったか分からないが、撮影現場で監督を殴り倒して、映画界を追放となった。

犀吉の祖父は大物の戯曲作家(斎木獅子吉)で、その祖父の名と、彼自身の不思議な魅力に、家電メーカーのオーナー社長の娘で、10歳以上年上の鷹子はすっかり惚れ込んでしまう。トントン拍子で二人は結婚することになる。夫婦で新しい演劇活動を行っていくことも新しい人生の目標だ。

犀吉は金泰の素質を信じ、己の叶えられなかったボクサーとしての夢を金泰に託す。金泰のサポートに熱中する犀吉に、鷹子の助けもあって、彼女の実家の家電メーカーが金泰のスポンサーとなる。以後、金泰に上位日本ランカーとの対戦のチャンスを作っていく。

このあたりの下りは、漫画、あしたのジョー白木葉子(白木財閥のお金持ちで白木ジムを主宰する)が思い浮かぶ。あしたのジョーの連載開始は1968年なので、原作者の高森朝雄がこの参考にした可能性もある。食事をしても30分毎に吐くという金泰は、ジョーと対戦した金竜飛を連想させる。金竜飛は朝鮮戦争のPTSDで必要以外に食物を獲れなくなった。「ちいさいころから飢えに飢えきった長い年月がわたしの胃ぶくろをちいさいままにちぢめてしまったのだ。かなしいかな許容量がきめられてしまったのだ(あしたのジョーの金竜飛セリフより)

調子が上向いていた金泰は、日本バンタム級二位のタイガー紺野との一戦を迎える。

この試合、金泰は三回KO勝ちでボクシングファンにその存在を印象付ける。(これも”あしたのジョー”で矢吹丈と対戦した日本王者、タイガー尾崎を思い出してしまう)

犀吉は闇賭博で金泰の勝利に10万円を賭けていた。しかし、現金のない犀吉は友人である主人公の愛車をカタに10万円を賭けたそう。負けた場合は、愛車と共に逃亡するつもりだったと主人公に説明する犀吉は大胆すぎる。

金泰はグラスジョーの持ち主で、キャリア初期は何度かノックアウト負けを喰らっていたが、この頃には、そんなことがウソのように連勝していた。ちなみに、金泰がタイガー紺野をKOした試合のメインイベントは、それまで14連続KO勝ちの南米王者、ブラジルのアントニオ・ペトロニアが日本フライ級王者とノンタイトル15回戦だった。

愛妻を帯同して、陽気に振舞っていたペトロニアは試合を通じて優勢であったが、最終回にKO負け。ペトロニアは同じブラジルのエデル・ジョフレ(世界バンタム級、フェザー級王者)、日本フライ級王者は、田辺清(日本フライ級王者、ローマ五輪銅)、ファイティング原田(世界フライ、バンタム級王者)などがモデルだろうかと思ったが、この作品の連載時期、63-64年を確認すると、その数年前に矢尾板貞雄(日本、東洋フライ級王者)が59年1月に世界王者のパスカル・ぺレス(アルゼンチン)とのノンタイトル戦で判定勝ちしている。原田のエデル・ジョフレ戦は65年、田辺対アカバロ戦は67年だそう。

「ノンタイトル15回戦」というのは、モハメド・アリがノンタイトル15回戦でジョー・フレージャーと戦っていたが、当時は世界タイトルマッチ以外で15ラウンドの試合が行われるのは、あまり聞いたことがない。大江健三郎がボクシングに詳しいという話も聞いたことがないので、大体で書いたのかもしれない。

作品では、タイガー紺野との試合の後は、金泰はKO勝ちを重ね、日本バンタム級王座に就く。このくだりは作品では、説明だけで終わり。作品中のボクシング誌においては金泰の強さについて「金泰の顎はガラスのようだったとする伝説は誤り」とする特集記事が組まれた。

そして、この作品の金泰パートのクライマックス、金泰のフィリピンでの世界戦が決まってしまう。

犀吉は、これまでの試合でトレーナーの真似事もして、金泰を全面的にサポートしていたが、この試合についてはフィリピン行きを拒否する。金泰では万が一にも世界チャンピオンのラルゴ・カバリエロに勝てる見込みがないと判断したようだ。犀吉は不器用なのか「それでも勝てるよう最善をつくそう」とはならない。

金泰は犀吉の言葉にショックを受ける。一晩中「ホテルのガレージに腰を掛けて泣いていた」と繊細なところがある金泰、犀吉に見放された中でなんとかコンディションを仕上げて、フィリピンに乗り込む。

金泰のスポンサーとなった家電メーカーのお金などあれば、日本にチャンピオンを読んでタイトルマッチができた気もするが、1960年の当時の状況は分からない。

フィリピンからの衛星テレビ中継は、開始30秒の金泰の優勢を映し出した後、不具合で中継が中断した。10分後に復旧した時には試合がすでに終わっていた。フィリピンでのタイトルマッチの結果は金泰の初回KO負け。

次の日の朝刊に「ラルゴの一撃を顎に受けて驚きにあふれた眼を見開きながら、祈るように片膝をついて、それから背後に倒れようとする金泰」の写真が掲載されたが、ロバート・キャパが銃弾を受けて倒れる兵士を写した写真に似ていたそう。

ロバート・キャパのあまりに有名な写真

「つくられた世界チャンピオン挑戦者」という見出しで打たれ脆さを非難する記事が載ったが、翌日に反論として「金泰のような天才的なボクサーが、戦後日本のバンタム級に出たことがあるか?」との投書が掲載された。
この投書は犀吉によるものだった。

金泰はバンタムから3.6キロ重い、フェザー級に上げて再起戦を戦うことになった。

世界戦敗退後に組まれた再起戦の相手は、森之山という選手で「有望な新人だったが、弱気という評判の背の高い若者」だそう。しかし、犀吉の馴染みの賭け屋は「誰も金泰に賭けるものがいない」とこぼす。しかも金泰本人にそのことを話してしまったそうだ。繊細な金泰は気にするだろう。

「犀吉さんだって金泰には賭けないんだから」の賭け屋の言葉に、犀吉は50万円の大金を金泰に賭けることに決める。鷹子に50万円貸してくれ、と告げる。その際に、鷹子がこぼした「あの子(金泰)には勇気が必要なのよ」とのコメントには、犀吉自身が傷付いている様子だった。鷹子との結婚前、いや金泰の敗戦前ならば、金泰に「勇気がない」という鷹子に「お前はリングで戦ったことがあるのか」と喰ってかかったはずの犀吉だが、そうはしなかった。犀吉は静かに、悔しさに身震いしている。その姿を見て、主人公も金泰に賭けることを告げる。

金泰陣営は、森之山の「弱気」というところから、彼を再起戦の相手に選んだ。フィリピンでKO負けした恐怖から、金泰を自由にするため「(恐怖に囚われた金泰よりも、もっと)弱気の相手と数ラウンド睨みあえば恐怖心を克服する」、と関係者は皆、そう考えた。

試合は静かな立ち上がり、しかし森之山の左ジャブを金泰は気にかけている様子、接近しても森之山の左に出端をくじかれてしまう。そんな金泰の様子に主人公や友人たちは不安を覚え始める。

そして、4回森之山の右ストレートが金泰の顎に決まり、あっさりダウン。5回は両手をたれて背後に倒れた。フィリピンの世界戦と同じ倒れ方だ。「ダメだ、金泰は(世界チャンピオンの)ラルゴを思い出している」と犀吉は途方にくれたように言った。

それでも金泰は闘い続ける。犀吉はもうリングを見上げることができずに、両掌に顔をうずめて震えているのだった。

6回、金泰は右フックで森之山のボディを攻める。それで一時的に試合の均衡を取り戻したかの様子だったが、長続きせず、3度立て続けにダウンを取られてKO負け。3度目のダウンからも金泰は懸命に立ち上がってきた。

新聞のスポーツ欄では、6回に3度目のダウンでKO負けが既に決まっているのに、必死に立ち上がってきた金泰を嘲弄する記事を書いた批評家がいて、主人公らは激怒する。しかし、金泰を慰めようにも、森之山戦の後、彼は既に失踪してしまっていた。

金泰は、以降のこの物語では、もう出てこない。前半の上り調子な雰囲気と比べて、金泰の失踪以降、犀吉の行動は常に裏目裏目で下降線を辿っていて、取り巻きも消えていく。森之山戦の6回の起死回生のボディ攻撃は、金泰なりの仲間(主に犀吉)への別れであったと主人公は述べる。

フィリピンでの世界戦、そして再起戦の敗北シーンは大江の筆力によるものか、印象的であり、60年代の日本ボクシングの雰囲気を感じさせてくれた。


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